09/05/06

円丈師匠、寅吉・和平ワールドを初訪問(3)




川原田天満宮の寅吉初めての飛翔獅子。「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」と誇らしげにでかでかと刻まれている。明治25(1892)年11月15日建立。
この台座の銘を見て、円丈師匠「これは寅吉が自分で奉納したんですね。宣伝効果を狙ったんでしょう。狛犬を受注するなら寅吉へ、というPRですね」と解説。
なるほど、今までずっとこのでかい銘には呆れていたのだが、宣伝塔代わりだとすれば納得がいく。しかも、奉納者の名前が刻まれていないから、これは円丈説に間違いないだろう。
改めてデータを確認したところ、

○明治25(1892)年11月15日、寅吉 川原田 天満宮の狛犬。「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」
明治26(1893)年頃(12~13歳)、和平、小松寅吉布孝(のぶたか)に弟子入り。当時、寅吉は48歳前後。
○明治26(1893)年7月、寅吉 鹿嶋神社脇の墓地 佐久間由松の墓石(下に亀、上に鶴)
○明治26(1893)年9月、寅吉 白河借宿新地山参道口の狛犬。「福貴作 石工寅吉作」
○明治27(1894)年?、寅吉 煙草神社の馬
○明治33(1905)年7月、寅吉 母畑温泉元湯元湯神社の社殿 「石川郡浅川村福貴作小松布孝」
■明治35(1902)年12月、21歳。沢田村村社八幡神社裏の末社 石の社。和平の銘では今のところ最古?
○明治36(1903)年6月、小松布孝・布行 大田原市西郷神社石の社殿。「小松布孝 布行 敬作」。和平21歳。
○明治36(1903)年9月、寅吉 鹿嶋神社の狛犬。「福貴作 石工 小松布孝」
明治38(1905)年?、長男重利誕生。和平24歳?
○明治39(1906)年8月、須釜神社の燈籠 福貴作 石工 寅吉
明治40(1907)年7月19日、長男重利死去(行年3歳)。和平26歳。
○明治45(1912)年7月、寅吉、須賀川市旭宮神社の恵比寿像。「石川郡浅川村大字福貴作 小松布孝」。寅吉68歳?
○大正2(1913)年3月、寅吉、長福院の毘沙門天像。「福貴作 小松孝布」。独立後だが、親方を手伝って和平も彫っていた。寅吉69歳。和平31歳。
●大正4(1915)年2月22日、33歳。小松寅吉布孝没(行年72歳)。

……となっており、明治25年、この狛犬を彫ったときが「小松布孝」銘の最初らしい。
つまり、この年に小松布孝という師匠の先代の名前をもらって、石工小松家を継いだという誇らしい宣言をしたのだろう。
この狛犬はその記念すべき「小松布孝襲名披露」作品だったわけだ。

須釜神社の燈籠(福貴作 石工 寅吉)や、白河借宿新地山参道口の狛犬(福貴作 石工寅吉作)という銘は、自分では納得のいかない作品だったのかもしれない。
最後の作品になった大正2(1913)年3月の長福院の毘沙門天像(福貴作 小松孝布)は、多分、ほとんど和平が彫ったものなのだろう。それゆえに、和平を自分の一番弟子、技の後継者であることを認める意味で「孝布」と、自分の名前をひっくり返した銘を彫ったのではないだろうか。
ここで師弟の確執は解けて、その2年後、寅吉は世を去った。
この頃、息子の布行がどのような暮らしをしていたのか、とても興味がある。普通なら、父親の死後、バンバン作品を残しそうなものだが、布行単独の作品はほとんど見あたらないのだ。
寅吉一派において、まさに「失われた大正期」なのである。

ところで、この川原田天満宮の記念すべき「小松布孝襲名披露飛翔獅子」だが、吽像の子獅子の尻尾が取れてしまっている。
いつからだろうと思ってチェックしたら、2004年3月25日の写真で、すでに取れていた。↓

↑04年3月の写真


この部分、実に残念だ


ここでも師匠はムツゴロウさんぶりを発揮


これが問題の銘。これだけでかく刻んである




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