09/06/28

「神の鑿」を手に入れる

今日は石川町の公民館で、石陽史学会主催の講演。『狛犬文化再評価と小松寅吉・小林和平』と題した講演を90分+αでやってきた。
この手の仕事は、会場で映像がきれいに出せるかどうかがいちばんの問題。パソコン用のプロジェクターを用意してもらう手はずになっていたのだが、なんと、そのことにばかり気を取られ、カメラを忘れてしまった。
石川町まではクルマで片道1時間。町に入る寸前に気づいて、がっくり。
昼食後、助手さんに家まで取りに戻ってもらう羽目になってしまった。すまん。

で、会場では、プロジェクターはあったものの、窓に暗幕がない。全部取り払ってしまったらしい。
しかも、窓はL字に、二方向、いっぱい空いている。
これでは全然映像が映し出せない。急いで、暗幕を探し出してもらい、取り付けるところから始める羽目に。
しかしまあ、開演までにはぎりぎり間に合って、なんとかなった。

講演後、かねてからお願いしてあった、小林和平の家を訪ねることができた。
古い写真を見せていただき、複写した。

和平、妻のナカ、娘の写真 娘が4歳くらいとすると、大正3年前後(和平32歳前後)か

小松利平(理兵衛布弘)〜小松寅吉(高原寅吉、小松家に養子に入り、小松布孝を襲名)〜小林和平……という、江戸から昭和にかけて石川町を拠点に活躍した3人の名石工のドラマについては、まだまだ解明できていない部分が多いのだが、現時点で分かっていることを以下、列挙する……。

━━━━━━━━━ 利平・寅吉・和平 年譜 ━━━━━━━━━
△天保年間? 小松理平(理兵衛布弘)、高遠藩を脱藩して南福島(多分、その後の工房があった福貴作周辺)に定住。
△天保11(1840)年 小松理兵衛布弘? 八槻都都古和気神社の狛犬。
△天保14(1843)年 小松理兵衛布弘? 村社八幡神社の波乗り兎。明治以前、おそらく日本で唯一、耳が立っている兎の石像。作者はほぼ間違いなく理兵衛。
●弘化元(1844)年、寅吉、石川町の旧山形村に高原家の次男として生まれる。
●万延年間あたり?、寅吉、高遠藩から脱藩して福貴作に定住していた石工の小松理平(理兵衛布弘)のもとに弟子入り。
●慶応2(1866)年、寅吉21歳のとき、理平に認められ、小松家の養子として迎えられる。
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明治14(1881)年7月13日、石川町沢井に、小林悟三郎・クラの次男として小林和平生まれる。
○明治25(1892)年11月15日、寅吉 川原田 天満宮の狛犬。「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」 「小松布孝(のぶたか)」襲名記念として自分で奉納か?
明治26(1893)年頃(12〜13歳)、和平、寅吉に弟子入り。当時、寅吉(小松布孝)は48歳前後。
○明治26(1893)年7月、寅吉? 鹿嶋神社脇の墓地 佐久間由松の墓石(下に亀、上に鶴)
○明治26(1893)年9月、寅吉 白河借宿新地山参道口の狛犬。「福貴作 石工寅吉作」
なぜか、小松布孝襲名後なのに「寅吉」の銘を入れている
○明治27(1894)年?、寅吉 煙草神社の馬
○明治30年以降、借宿新地山参道口白河楽翁歌碑の石柵
○明治33(1905)年7月、寅吉 母畑温泉元湯元湯神社の社殿 「石川郡浅川村福貴作小松布孝」
■明治35(1902)年12月、21歳。沢田村村社八幡神社裏の末社 石の社。和平の銘では今のところ最古?
○明治35(1902)年9月、雲照寺准提観音 「彫刻人小松布孝」
○明治36(1903)年6月、小松布孝・布行 大田原市西郷神社石の社殿。「小松布孝 布行 敬作」。和平21歳。
○明治36(1903)年9月、寅吉 鹿嶋神社の狛犬。「福貴作 石工 小松布孝」
明治38(1905)年?、和平の長男重利誕生。和平はこのとき24歳?
○明治39(1906)年8月、須釜神社の燈籠 「福貴作 石工 寅吉」
明治40(1907)年7月19日、長男重利死去(行年3歳)。和平26歳。
明治41(1908)年、東白川郡社川村大字一色小林多三郎の二女・ナカを妻として迎える。和平26歳?
△明治41(1908)年旧8月、西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の先代狛犬(石工不明)建立。(この先代は明らかに寅吉工房のものと思われるが、作者銘がない。極めて高度な技術に裏打ちされており、和平が彫ったものかもしれない)
明治42(1909)年、独立。和平27歳? 寅吉65歳前後
明治42(1909)年?、次男正誕生。和平27歳?
明治42(1909)年2月27日、次男正死去(行年1歳)。和平27歳。
明治45(1912)年?、長女登美子誕生。和平30歳?
○明治45(1912)年7月、寅吉、須賀川市旭宮神社の恵比寿像。「石川郡浅川村大字福貴作 小松布孝」。寅吉68歳?
○大正2(1913)年3月、寅吉、長福院の毘沙門天像。「福貴作 小松孝布」。独立後だが、親方を手伝って和平も彫っていた。寅吉69歳。和平31歳。発起人の中に和平の名もある
その前を守護する形で置かれた仁王像は和平の作だが「和東斎剣石 作」と彫られている。
大正4(1915)年2月22日、和平33歳のとき、師匠の小松寅吉布孝没(行年72歳)。
■大正12(1923)年9月、42歳。西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の灯籠。「石川郡澤井 石工 小林和平」
■大正15(1926)年、44歳。中島村滑津 常瀬山善通寺墓地地蔵菩薩像。
昭和02(1927)年4月22日、長女登美子、石川高等女学校在学中に死去(行年16歳)。和平45歳。
昭和04(1929)年?、養子實とその妻リン(ナカの姪)の間に長男登誕生。登は後に和平に師事し、石工を継ぐ。和平47歳?
■昭和02(1927)年、45歳。沢井八幡神社裏の尾珠狐
■昭和05(1930)年1月、48歳。石都都古別神社の狛犬
■昭和06(1931)年、保土原神社の狛犬
■昭和07(1932)年10月、51歳。古殿八幡神社の狛犬。「満州事変皇軍戦捷記念」
■昭和08(1933)年9月、52歳。西白河郡中島村滑津 羽黒神社の狛犬
■昭和09(1934)年9月、53歳。棚倉町一色 鐘鋳神社の狛犬
■昭和10(1935)年11月、54歳。小野公園の仁王像
■昭和13(1938)年1月、56歳 石都都古別神社の五重塔
■昭和13(1938)年、56歳。石川郡石川町 王子八幡神社の泉重左衛門像。玉垣、石組みは弟子の遠藤秀一。
■昭和13(1938)年、56歳? 古殿町山上 天澤山東禅寺 地蔵菩薩像
■昭和14(1939)年旧正月、57歳。石川郡石川町 王子八幡神社の狛犬(弟子の遠藤秀一と合作?)「戌亥会初老記念」
■昭和14(1939)年1月、石川郡石川町 石都都古別神社御仮屋の狛犬(大竹俊吉と連名)。「戌亥会初老記念」
■昭和15(1940)年、58歳? 管布称神社の大黒像
■昭和15(1940)年10月、59歳。羽黒神社の馬
■昭和19(1944)年1月、62歳。羽黒神社の灯籠
■昭和22(1947)年11月、66歳。石川郡石川町赤羽 赤羽八幡神社の狛犬
昭和24(1949)年3月、67歳。土蔵新築。
■昭和27(1952)年、70歳? 平田村子平(おだいら)諸楽山法性寺 子安観音像
△昭和28年5月、鹿嶋神社参道の灯籠「石工 福貴作 梅沢敬明」(梅沢は東京美術学校卒の変わり種石工。寅吉とは直接は無関係だが、同じ地に住み、多大な影響を受けていて、「寅吉超え」が目標だったらしい)
昭和29(1954)年4月、72歳。家新築。
昭和30(1955)年5月18日、妻小林ナカ死去(行年78歳)。和平73歳
昭和35(1960)年1月29日、後妻小林ハル死去(行年67歳)。和平78歳
■昭和36(1961)年4月3日、79歳。石川郡玉川村川辺 正八幡神社の狛犬(阿のみ)。和平名での最後の狛犬。
■昭和38(1963)年12月、82歳。西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の狛犬(吽のみ。孫の登が作成するのを指導)
昭和41(1966)年3月8日、小林和平死去(行年86歳。満84歳)。
昭和53(1978)年1月10日、養子小林實死去(行年73歳)。
平成08(1996)年12月23日、孫小林登(實の長男)死去(行年68歳)。

★年齢は「行年」以外は満年齢。年号、年齢に「?」とあるのは推定。月が分からないため年齢が確定できないものや、没年が「数え年」で記されているため、満年齢が確定できないものなど。

墨文字で行頭無印は和平についての記述。は和平の作品。は寅吉についての記述。は寅吉作品。は寅吉と関わりのある人物など。


小林和平と妻のナカの間には3人の子供が生まれたが、長男と次男は赤ん坊のときに亡くなり、3人目の長女も、旧制女学校在学中に亡くなっている。
上の写真は、娘がまだ生きていた頃に一家で写した貴重な写真。
和平は若い頃、こんな面構えだったのだなあ。
娘もなかなかきかない顔をしていて、大人になっていたらどんな女性になっていたか。和平にとっては最後の望みだっただろうに、娘が亡くなったときはどれだけのショックを受けたことだろう。
名作、石都都古和気神社参道口の狛犬「一家」は、娘の死後2年目に完成・奉納されている。3匹の子獅子に込められた思いがいかに深かったか、想像もつかない。

かつての石都都古和気神社参道入り口の写真


くっきりと目玉が描かれていたのが分かる


これは羽黒神社の狛犬(昭和9年)


今は、ダンプカーがぶつかって壊れた阿像の尾も健在


吽像の子獅子も目がくりくり


古殿八幡神社の狛犬建立当時の記念写真


こんな顔だったのだねえ


真ん中が和平


寅吉に負けず、大変そうな性格を思わせる顔


工房にて。多分、右は孫の登だろう


拡大すると、よその材木屋さんの名入り半纏を着ている。そういうことには一切こだわらなかったんだろう。

高遠藩から逃れて南福島にひっそりと身を潜め、石造りのアートにこだわった小松利平(理兵衛布弘)は、丁稚に取った地元の少年・高原寅吉の技量を認めて、先祖の大切な名前、小松布孝を襲名させた。
その襲名披露にあたる作品が川原田天満宮の飛翔獅子(明治26年)。
寅吉は息子の亀之助布行を跡取りとして仕込みながらも、一番弟子の和平の力量を認めざるをえなかった。
和平は跡を継がせるべき息子二人に夭逝され、残った娘も失い、妻の妹の夫を養子に迎え、義理の妹夫婦の子供に跡を継がせた。石工を継いだ長男・登の長男のかたが、現在、小林和平の家を継いでいらっしゃる。

思えば、利平、寅吉、和平の3人は、直系の跡取り問題で苦労している。
想像にすぎないが、利平は実力本位で寅吉に小松家の石工業を継がせた。
寅吉と和平は、師弟の絆は堅かったが、石工業の継承をめぐる確執があったのだろう。
寅吉は晩年、実の息子の布行と連名で名前を刻んだ作品をいくつか残しているが、その時期には、和平は年季明けしていたにもかかわらず、作品に名前を刻んでいない。
和平の名前が刻まれた小さな石の社(明治35年)が残っているが、この年、寅吉は弟子を引き連れて栃木県の雲照寺に1年半、泊まり込みで准提観音像を彫っていた。どうも和平はこのとき、師匠の留守中に任された地元の仕事に、まだ年季明けしていないのに自分の名前を入れてしまったのではないかという気がする。
それが師匠の逆鱗に触れ、以後、長い間、和平は自分の名前を作品に刻まなかったのではないか。
和平は年季明けしてからも、寅吉の工房(石福貴)の仕事を手伝っていた。寅吉の晩年は、ほとんど和平が寅吉の名前で彫っていたのかもしれない。

△明治41(1908)年旧8月、西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の先代狛犬(石工不明)
は、明らかに寅吉工房の作なのだが、寅吉の作風とはかなり異なる。和平以外の弟子が彫ったのでなければ、和平が中心になって彫り上げたものだろうが、和平の年季明けは翌明治42年だから、まだ名前を彫れなかったのではないだろうか。
○大正2(1913)年3月、寅吉、長福院の毘沙門天像。「福貴作 小松孝布」。寅吉69歳。和平31歳。

この作品は、事実上は和平がほとんど彫っていたのだろう。この毘沙門天像の前に置かれた仁王像2体には、「和東斎剣石」という名前が彫られているが、これは和平の作品。
死を予感していた寅吉は、和平を自分の後継者として認め、もしかすると「孝布」という名前を与えたかったのかもしれない。あるいは、この作品は、独立した弟子の和平がほとんど彫ったものだという意味で、わざと小松布孝ではなく、「孝布」と逆にしたのだろうか。
それに対して、和平は、あくまでも小松家とは関係ないということで、「和東斎剣石」などという名前を名乗ったか、一種のウィットで、名前遊びで師匠に答えたのかもしれない。
寅吉はその2年後、大正4(1915)年2月22日に亡くなっている。そのとき、和平は33歳だった。

大黒像建立記念の写真。大黒像の向かって右隣にいるのが和平

皇紀2600年という文字が見えるので、昭和15年。和平は58歳か59歳。これは管布称神社の大黒像だろう。


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