09/07/23の3

鐸木三郎兵衛(第十代)の家を訪ねる

福島町最後の町長・鐸木三郎兵衛(十代・三郎兵衛)は、宮城県刈田郡白石本郷桜小路の金谷家の次男として生まれている。
男子が絶えた福島の鈴木家に養子として迎え入れられ、その後、明治12年に鈴木を改姓して鐸木を名乗った。つまり、十代三郎兵衛は、初代鐸木である。

三郎兵衛には実子が11人(6男5女)いたが、その他、多数の養子をとった。鐸木姓を継いだ養子たちはみな福島を出て、西に散らばっているらしい。

僕の養父・鐸木經彦の父親・鐸木巌(いわお)は、三郎兵衛の実子で三男にあたる。戦前、ハワイやサンフランシスコなど、アメリカに十数年在住し、神学校で聖職者の資格も取ったらしい。当然、英語は堪能だっただろう。
帰国後は実業にはまったく興味を示さず、英語教師などをしていた。また、キリスト教への傾倒もやめた形跡がある。その後、終戦直前、まだ50代の若さで亡くなった。
死因はどうやら「栄養失調」だったという。
お洒落で、プライドが高かった巌は、困窮を顔に出さず、他人から食料を都合してもらうというようなこともできなかったらしい。
あと10年、20年生きていれば、アメリカ生活が長く、学者肌の巌には、もっともっと活躍の場があっただろうに、と、残された子供や周囲の人たちは惜しがる。

三郎兵衛は福島市の北にある伊達郡長岡村にあった古い寺の建物を買って、晩年そこで暮らしていた。その家は三郎兵衛の次男・彦象(長男は若くして他界)が継ぎ、今は彦象の長女が継いでいるが、孫の代になって、姓は桑原に変わっている。
この日集まった人たちは、福島市や伊達市に残っている数少ない親戚筋だが、鐸木姓は親父(神奈川県在住)と親父の弟(埼玉県在住)の家族だけ。
僕は子供を作らなかったし、鐸木家からは独立して「初代たくき」を名乗っている。叔父(親父の弟)には娘が二人いるが、二人とも結婚して姓が変わっている。
鈴木家の跡取りとして養子として迎えられた十代目・三郎兵衛は、その後「鈴木」姓を捨てて「鐸木」を名乗った時点で、鈴木家は絶えたとも言える。三郎兵衛が始めた鐸木姓も、福島県からは消えてしまった。「家」というのは簡単に消滅するのだなあ。
しかし、三郎兵衛は「家」などというものに固執するようなことはない、もっとスケールの大きな人だったようだ。
先代三郎兵衛(誠信)は薬問屋で財を成し、一時期は、今の県庁のある場所一帯を所有し、町の境界線まで、他人の土地を通らずに歩けたと言われたそうだが、その財産は養子に来た十代目の三郎兵衛が、公共事業などにどんどん注ぎ込んでしまい、見事なまでに子孫には残されていない。
三郎兵衛が行った事業はいろいろあるが、中でも、福島の大火(明治16年)の後の復興工事と、福島市内に公共水道を初めて敷設した(明治11年)功績は大きい。それらの事業に、先代からの財を相当注ぎ込んだらしい。
福島日々新聞社を創設したのも三郎兵衛だが、この社名も今はもう残っていない。
役職としては、区内薬舗元締(これは先代からの世襲だろう)、福島銀行取締役、福島町議会議長、福島県議会議長(明治38年11月~40年9月)、衆議院議員(政友会)などなど、たくさんあるようだが、とにかく、財産と権力を子孫に残すことはまったく考えていなかったふしがある。自分の代で使い切ろうとしていたのかもしれない。
残すべきものは財産や地位ではなく、思想である……という哲学を持っていたのだとしたら、養子をたくさんとったのも頷ける。

信夫山を離れる前に、九代三郎兵衛(誠信・俳号は西美)の句碑を見ておくことにした。

この句が名句かどうかはさておき……、この案内板にも鐸木家先祖の解説が載っているのだなあと感心してしまった。
しかし、どうも一部では、この九代三郎兵衛(誠信)と十代三郎兵衛が混同されているようだ。
福島市最初のキリスト教会設立を援助したというのは十代の三郎兵衛の間違いだろう。

ネットで「鐸木三郎兵衛 キリスト教」を検索すると、トップでヒットするのが
⇒ここ
それによれば、

伊達の旧中瀬村の名主宍戸義八郎が1875(明治8)年、伝道師ライトを2年間自宅に滞在させたことが、この地での最初のキリスト教伝道だった。ちなみに俳優の宍戸錠は、宍戸義八郎の子孫。
その後、宍戸の影響で長岡村(現伊達市)の芳賀家の4代目甚七(伊之作)が、1885(明治18)年に鐸木(すずき)三郎兵衛とともに宣教師フルベッキ、植村正久らを受け入れ、飯坂で初めて「基督教大講演会」を開催。

……とある。


(2013年11月19日追記)
上のリンクは切れてしまっているので、改めて「鐸木三郎兵衛 キリスト教」で検索したところ、⇒ここがヒットした。
これも消えてしまうかもしれないので当該箇所を転載しておく。

かくて明治19(1886)年5月23日に第2回の洗礼式に於いて新に受洗したる鐸木三郎兵衛氏外数名及び已に信者となってゐた前記山本、小此木等の人々を以てここに始めて講義所を設け鐸木宅の一部を借り受けて之に充て、ここに「福島耶蘇教講義所」の看板をかかげた。即ちこの日を以て福島教会創立の日となすのである。当時吉田亀太郎氏は鐸木氏宅に居住して居られたが、福島市を中心として飯坂、長岡、保原、掛田等信達一円の伝道に当たられ、更に遠く三春、須賀川地方にも出張せられた。


……だそうである。
1885(明治18)年には、九代三郎兵衛はすでにこの世にはいない。この三郎兵衛とは十代目三郎兵衛のことだ。

また、⇒ここに、「わが国産業化と実業教育  第3章:事例研究:B 福島商業学校の設立と発展」(著者: 羽田 新、出版社: 国際連合大学、出版年: 1984年)というものがあるが、それによると、

福島市立福島商業補習学校の設立については,直接には当時の福島町長であった文化人の鐸木[すずき]三郎兵衛をはじめとする町政関係者が,町民子弟の教育に関してきわめて熱心であったことがあげられる.しかし,その背景には,当時の福島町が福島県北部の商業中心地であり,とりわけわが国でも有数の養蚕地である信達地方(信夫郡・伊達郡の一帯)の中枢部に位置して生糸取引(とくに輸出生糸)が盛んで,多くの生糸問屋や関連業者,銀行等金融機関が所在したために,これらの業務に従事する者を組織的に養成する必要に迫られていたという事情がある.
 当時の入学者の大半が商家の子弟であり,卒業後は自家営業やこれらの商店等に就職している点から見て,本校は地場産業の要求に応じて設立され,これにふさわしい役割を果たしたいわば純産地型の学校ということができよう2).このような性格は,乙種商業学校である福島市立福島商業学校となってからも継続して見られるが,これに加えて下級ながら中等商業学校であるところから,義務教育からの進学校の役割を担うことになった.


……のだそうである。
また、

福島商業補習学校の設立は,以上のような福島町民の希望を反映するものであったが,町政当局ならびに関係者の対応は次のようであった.明治22年(1889)に町村制により福島町となったが,同年の町予算は14,982円余(ただし,22年7月-23年3月の9ヵ月分)で,そのうち経常費 12,214円余の61%に当たる7,496円余が教育費として支出されることになっており,幼稚園費を含めると実に3分の2を占める高い比率である.2,501円余の役場費,580円余の土木費に比していかに大きな比重を占めていたかがうかがわれるが,これは教育への重視を物語る数字である.
 ではその他の警備費(消防など),衛生費等を含む事業費の不足は何によってまかなわれていたかというと,これは町の有力者の有志金に頼ってきたのであるが,その有力者とは第6表のような人達であった.いずれも町政に直接タッチし,もしくは間接的に関与した人々で,とくに21名中17名までが商人であり,しかも10名が生糸商関係者(いわゆる蚕物屋)であることは注目される.ほとんどが生えぬきの福島人である.福島町立福島商業補習学校の設立を推進したのはこのような層であった.
 具体的経過としては,明治29年(1896)までに鐸木町長が中川県属らと協議の上,同年3月22日の町会で5名の設立調査委員を委託して調査を行い,翌30年1月12日の臨時町会で福島第一尋常高等小学校に附設する件が決議された.

福島町の有力者(明治22年(1889)8月)
……ともある。
昔は、このように地域の有力者は私財をなげうって地域振興、教育や公共福祉などの事業を支えていたのだろう。
この表に、当時まだ30代になったばかりの鐸木三郎兵衛の名前も出ている。
法事の後の会食でも、「三郎兵衛が鐸木家の財産を全部、福島の教育振興や災害復旧事業なんかのために使ってしまったからねえ。子孫は貧乏になってしまったんだねえ」というような話が出た。

この「福島商業学校の設立と発展」は、三郎兵衛について、さらにこうも紹介している。

地方的レベルで見ると,まず当時の町政当事者ならびに関係者達が教育に関して非常に熱心であって,福島町は,教育熱心をもってつとに有名であった.とくに町長を勤めていた鐸木三郎兵衛は,実業家にして,かつ県下でも有名な進歩的知識人(和漢の学に通じて文才あり,俳句をよくして馬巌と号し,キリスト教信者,また福島日日新聞を創刊)であり,また県会議長,代議士(政友会)として町や県に大きく貢献しており,のちには福島県教育会長となって教育の振興に奔走した


う~~ん。
わがスーパー曾爺さん・鐸木三郎兵衛が今生きていたら、原発をほいほいと誘致し、巨大風車ビジネスを簡単に受け入れて郷土を荒らす今の県政、保安林を率先して解除し、水源地を破壊した田村市市長らの姿勢をどう見るだろうか。
住民のために私財をなげうってでも尽力すべき政治家が、権力を利用して私腹を肥やし、自然破壊ビジネスのお先棒を担ぐ。あの世から、こういう連中に鉄槌を下してくれよ、曾爺さん。
……そんなことを考えながら、角屋のおいしい食事を食べていた。

会食後、三郎兵衛が晩年暮らしていた長岡村(現伊達市)の家を訪ねてみた。

この家は、現在、伊達市の文化財に指定されている↑。
どういう歴史的価値があるのかというと……、
ここはかつては極楽院という修験の寺で、紀州熊野参詣の先達(せんだつ)を務めていた。
天文3(1534)年、14代・伊達稙宗(たねむね)の息子・清三郎がこの極楽院に入嗣したため(伊達郡岡村の行者・極楽院善栄の養嗣子・極楽院宗榮)、伊達氏の庇護を受けた。
ちなみに伊達稙宗は正室+4人の側室に14男7女を生ませていて、極楽院宗榮は下から6番目あたりらしい。いいなあ、ハーレム状態。
極楽院宗榮は延宝年間にその裔孫が仙台藩に召し出され、岡村氏と称した。
そんなわけで、伊達氏発祥の地を自負する伊達市としては、極楽院は市の文化財に指定する価値のある場所である、ということなのだろう。
極楽院は明治初期に廃寺となったが、後にそれを買い取って自宅(隠居所)にしたのが鐸木三郎兵衛だった。
現在は三郎兵衛の子孫(次男・彦蔵の長女一家)が住んでいるが、姓は桑原に変わっている。

家の中には、陸軍?の練習機か何かの木製プロペラが飾ってあった
かつて地元の小学校に寄付したところ、いらないと戻ってきたとか


……で、問題はこの肖像画である。
この顔には見覚えがある。かつて「鐸木三郎兵衛」をGoogleで検索したときに見つけた、福島市の広報紙にあった「市政百年の軌跡」と題した読み物の第二回に掲載されていたものだ(⇒これ)
面白かったので、この阿武隈日記でも書いた(⇒これ)
ところが、三郎兵衛の家で説明を受けて分かったのだが、この肖像画は福島町長を務めた十代目三郎兵衛ではなく、その前の三郎兵衛(誠信)の肖像画なのだ。吊された鮭の絵(美術の教科書によく載っていた)で有名な高橋由一が描いたもの。現在、原画は福島県立美術館に所蔵されている。
多分、福島市広報担当者か記者が、この家を訪ねてこの肖像画を間違えて複写していったに違いない。
間違えたのも無理はなく、肖像画の隣に、こんな「顕彰状」が飾ってある↓。これのせいで、取材者が勘違いしたのだろうか。

1978年に「県議会百年」記念として、かつての鐸木三郎兵衛に送られた顕彰状
この顕彰状は十代三郎兵衛に送られたものだが、十代三郎兵衛は……↓

十代目鐸木三郎兵衛
こちらなのであった↑
不思議なファッションだが、芭蕉のコスプレか?
茶目っ気もあったということかなあ。
血がつながっていないので当然だが、先代には似ていない


伊達市の文化財に指定されている家。緑のトタンの下はかやぶき屋根になっている

肖像画の間違いが訂正できてよかった。
というわけで、あの広報紙に載っている肖像画は十代・三郎兵衛のものではありませんよ>>福島市

96歳になるという御当主に見送られ、文化財指定の「三郎兵衛の家」(指定の理由は別だが……)を失礼した。

亡くなったお袋は、生前、「パパ(夫・鐸木經彦)が普通の『鈴木』だったら結婚していなかった」と言っていた。それほど名前にこだわった人だったが、お袋よ、三郎兵衛曾爺さんはそんなのを超越した人だったと思うよ。

お袋が墓相学の本を読んで建てた「鐸木家の墓」に入るのは、親父が最後だろう。僕はこの墓には入らない。墓なんていらない。
そもそも、骨を拾ってくれる人がいるかどうか、大いに怪しい。
もしいるなら、火葬にしないというのは難しいだろうから、骨は細かく砕いて粉にして、オタマの池にでも撒いてくれればいい。
初代・たくきは、初代で消える。それでいい。

資料1「福島県名士列伝 前編 衆議院議員候補者略伝」福島町(福島県):福島活版舎、榊時敏(陸羽新聞社員)編、明治23年5月刊行 全51ページ(著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて国立国会図書館近代デジタルライブラリーにて公開)の40~44ページ目


鐸木三郎兵衛末裔として、ちょっと骨だが、この部分を「現代語訳」?にしてみた。

無学なのと文字が鮮明でない箇所があるのとで、若干間違いもあるかもしれないが、およそこんな内容になると思う。



「福島県名士列伝 前編 衆議院議員候補者略伝」福島町(福島県)福島活版舎、榊時敏(陸羽新聞社員)編、明治23年5月刊行 全51ページ(著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて国立国会図書館近代デジタルライブラリーにて公開)の40~44ページ目を現代語に抄訳したもの↓

鐸木三郎兵衛氏(平民)

戸数三千にも満たない我が福島町には、これといった有志家がいないが、最も公共心に富む唯一の有志家は誰かと問われれば、私は「硬直無欲侠勇」をモットーとした鐸木三郎兵衛こそその人であると即答する。
三郎兵衛がひとかけらの私心をもはさまず、邪念を抱かず、無欲潔癖な好人物であったことに疑いをはさむ者は誰ひとりいないだろう。

三郎兵衛は白石藩の家臣として安政5(1858)年、磐城国刈田郡白石本郷に生まれた。
白石義塾に通学した後、角田県立学校に転校、漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)を専門に学んだ。
明治4(1871)年、仙台に出て、石坂軍医の門下で医学を修める傍ら、太田某のところで経書を講し、また、独乙(ドイツ)学校にも入って学んだ。
明治7(1874)年、東京に出て、警視医学?に通い、医学を学ぶも、明治10(1877)年春に病にかかり、帰郷。
明治11(1878)年、鐸木家に養子入りし、明治12(1879)年、薬舗取締に任命。福島町町会議員に当選。水道開墾係に任命される。
明治13(1880)年、会社・銀行役員等に推薦される。
明治14(1881)年、信夫郡総合会議員および議長職。
明治15(1882)年、福島事件(※自由民権運動のなかで1882年、福島県の自由党員・農民が県令三島通庸の圧政に反抗した事件。喜多方事件ともいう。自由民権運動激化事件のひとつ)で嫌疑をかけられ投獄されるも、すぐに無罪放免となる。
その後、福島郵便局一等郵便取扱を命じられ、業務に就いたが、地方の郵便業務が直轄事業ではないために効率が上がらないことを知り、すぐに建議書を書いた。それが認められ、直轄事業となったのを見届けるや、自ら辞職を申し出て依願免官となる。
この例からも分かるように、三郎兵衛はひとつの職に就くと、その職務、業務における利害得失の本質・実態を見抜く能力に秀でていた。
明治18年から19年にかけて、福島県庁移転論が出ると、福島町の総代人として再三上京し、各大臣に地元の事情を説明し、説得にあたった(※福島市が今も県庁所在地になっているのは三郎兵衛の働きによるところが大きいとされている)。
明治20(1887)年、東北鉄道(東北本線)が福島県を縦貫するときには、率先して新市街改修計画を建議し、長尾兵治郎、村井辰次郎らと協力して町の改修を遂行した。現在の福島市の町並みを作ったのは彼らの功績によるものといえる。(※駅前の大通りは、当時としては常識はずれに広い通りだったが、三郎兵衛は「将来、必ずこの広さが必要になる」と主張して計画を通した。完成後、周囲から「ここを『三郎兵衛通り』と名付けよう」という声も上がったが、三郎兵衛はそれを固辞し、町が栄えるように「栄通り」としたらどうかと言ったという話も伝わっている)

三郎兵衛は、政治活動においては、熱心な大同派(※当時の旧自由党系のグループで、自由民権運動を推進した。東北では河野広中がリーダー的存在だった)で、かつ純然たる個人主義、自由主義を奉じていた。現在(※本書が刊行されたのは明治23年)も、岩磐大同倶楽部事務委員であり、本年3月の県会議員改選に際しては、三郎兵衛は最大多数票で信夫郡より選出された。福島町現住者で県会議員に選出されたのは三郎兵衛が初めてである。
三郎兵衛はクリスチャンで、プロテスタント教会の長老であると自認している。慈善博愛に貫かれた行動は徹底しており、明治12年以降今日まで、住民のため、地域のために巨額の私財をなげうって活動してきた。奇特とはまさに三郎兵衛の生き様のことであろう。
私が特に賞賛を惜しまないのは、「政治癖」に偏向することなく、公私混同もしない。今の政治家は、政治信念や所属党派などの利害計算によって社会的公益性を傷つけていることが多い。所属党派や政治理念を理由に商工業をことさらに区分けし、利益誘導をはかるなどは人として許されざることである。
私は、三郎兵衛氏が今後も「党派熱」に感染することなく、今まで通り、ますます政治の弊害を排除し、社会の公益を重視し、鶏の群れの中にいても孤り、鶴であれ、と望むものである。

最後に、三郎兵衛氏の風流人としての一面を紹介したい。
氏は俳句をたしなみ、「田舎宗匠」を自認している。俳号は「馬巌(ばがん)」という。
二つほど、句を紹介する。

 花と見て置くも又よし唐がらし
 物影の出來て明るしけふの月

氏の心の余裕をうかがわせる句である。

鐸木三郎兵衛氏が納める直接国税は22円余りであり、これが33年続いている。
(※部分はたくきがつけた注釈)

少し調べただけで、福島事件や河野広中まで出てきて、なかなか勉強になった。
東北で自由民権運動を引っ張っていった河野広中(第10代衆議院議長)は、若い頃、常葉町(現田村市)の副戸長や石川町の区長をつとめた。
その田村市には現在二か所で巨大風車群が建造されていて、あろうことか田村市長は貴重な水源地の保安林を解除させるという愚行までおかして似非エコビジネスのお先棒を担いでいる。
河野広中は赴任地の石川町で石陽社を設立し、これが東北地方の自由民権運動のさきがけとなったが、その石川町では明治時代、小松寅吉(布孝)やその弟子・小林和平という名石工が石彫刻というアートに生涯をかけていた。
いろんなところで少しずつ線が結ばれているのだなあ。



『裸のフクシマ』 


裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす (たくき よしみつ)

福島の教育と地域振興に生涯尽力した政治家・鐸木三郎兵衛の曾孫にあたる作家・たくき よしみつ が、2011年、福島県川内村の自宅で原発人災を経験。恐怖と怒りの中の避難、そして1か月後に「全村避難」中の村に戻ってからの体験を通して「フクシマ」の真相、深層に迫る。

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マリアの父親 第四回小説すばる新人賞受賞作

マリアの父親

(1992.01/集英社)……  「あまりにも早すぎた、地球への恋愛小説」と評された、たくき よしみつの小説。第四回「小説すばる新人賞」受賞作。
ミステリアスな美女・マリアと、彼女と行動を共にする天才・デンチ。二人と偶然知り合った主人公は、「地球の真相」を知る旅に出る……。
「久しぶりに志のある作品に出会った」と、選考委員の五木寛之氏も賞賛。

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