2011/02/08

京都西明寺にある「阿育王石柱」の謎 とりあえずのまとめ

京都西明寺にある「阿育王石柱」の謎、現時点での総まとめを。


「京都を歩くアルバム」より
この石柱を巡る謎で、特に注目される点は次のようなものだ。
  1. 現存するアショーカ王石柱で、柱上に獅子や牛が乗っているものはあるが、馬が乗っているものはない。なぜこのようなものが造られたのか
  2. この石柱建立は誰の発案なのか
  3. 奥州の石工である小松寅吉がなぜ明治時代に京都まで呼ばれたのか

それぞれについて、しつこく調べて考察してみた。
まず、上に馬が乗っているアショーカ王石柱は本当に現存していないのかということ。
アショーカ王石柱についての英文Wikiをはじめ、ネット上で検索できる限りの検索をして調べてみた。
アショーカ王石柱について、英文Wikiに書いてあることを要約すると以下のようになる。

アショーカ王石柱とは、インド北部に散在する一連の円柱遺跡。マウリヤ王朝第3代アショーカ王が建立した、あるいは少なくとも碑文を刻ませたと考えられている。
当初は多数存在したと思われるが、銘文が刻まれた状態で現存するのは19柱である。その多くは壊れており、完全な形で建っているのは。高さは12m~15m(40~50フィート)、重さは50トン程度のもの。砂岩でできており、チュナール(ガンジス河中流域、アラハバードとバラナシの中間くらい)の石切場から切り出されて、各建立地に運ばれたと考えられる。
デリーに2柱(元々はメートラとトプラにあったものを、1356年、Firuz Shah Tughluqがデリーに運ばせたと思われる)、アラハバードに1柱(元々はコーサンビーにあったと思われる)、 ラウリヤ・アララージ、ラウリヤ・ナンダガル、ランプルーヴァ(柱頭に獅子像)、サンカーシャ(柱頭に獅子像)、サンチー、サルナート、ニガリサーガル、クンムラハール、ゴーティハワ、ヴァイシャリなどに現存している。
ルンビニとニガリサーガルの石柱には奉納のいわれを記した碑文が残されているが、ヴァイシャーリとランプルーヴァの石柱にはない。
石柱に使われた石は2種類ある。ひとつはマチューラ地区で切り出された赤白斑点の砂岩。もうひとつはバラナシ近くのチュナールから切り出された小さな黒点を持つ硬質砂岩。
柱頭部の様式が同じなので、これら石柱群はすべて同じ地域の石工によって建立地で加工されたと考えられる。
柱は4つの部分から成っている。竿部分はシンプルに、断面部は丸く加工され、上に行くにしたがって細くなっているが、全体が一つの石から刻まれている。柱頭部は蓮の花弁状に丸みを帯びて刻まれている。台座はシンプルな四角か装飾が施された円形のいずれか。その台座と一体に彫られた動物の像が柱頭にある。


現存するアショーカ王石柱の写真をできる限り採集してみたが、柱頭部に馬の像が乗っているものは、やはりひとつもなかった。

↑ランプルーヴァの石柱、柱頭部は獅子と牛


↑サルナートの石柱 柱頭部は有名な4頭の獅子


↑ルンビニの石柱


↑ヴァイシャーリの石柱 柱頭部は獅子1頭


↑サンカーシャの石塔 柱頭部は獅子(左)と象(右2つ)


↑ラウリヤ・アララージ(左)とラウリヤ・ナンダガル(右)それぞれの石柱
ラウリヤ・ナンダガルの石柱柱頭部は獅子像1頭

↑クンムラハール(左)、ニガリサーガル(中)、ゴーティハワ(右)の石柱。 どれも柱頭部は喪失


↑サンチー(左)、コーサンビー(中、右)の石柱。いずれも柱頭部は喪失


写真:Wikimedia Commons 株式会社トラベルサライ 『青い蓮』 青蓮寺NOW


この中で、ルンビニの石柱については、唐代の玄奘三蔵(『孫悟空』に出てくる三蔵法師のモデルとして日本でも有名)が636年に訪れ、『大唐西域記』という紀行文に「柱頭部には馬の像が乗っていたが、落雷で折れてしまった」と記している。
アショーカ王石塔と馬の像を結びつけるものはこれしかなさそうだ。
7世紀にはまだブッダ生誕の地として巡礼の対象になっていたわけだが、『大唐西域記』でのルンビニの描写では、すでに聖地としての輝きが失せて、荒廃が始まっていたことがうかがわれる。
その後、イスラム勢力によってルンビニは破壊され、廃墟と化した。7世紀に落雷で折れてしまっていたアショーカ王石柱も、そうした破壊にあって埋もれ、やがて人々の記憶から消えていった。
しかし、『大唐西域記』の記述を元に、1896年、インド考古局のフューラーがルンビニで発掘調査を行い、アショーカ王石柱が発見された。
柱部分に残された碑文に、即位20年にて、アショーカ王自らがブッダ生誕の地である当地を参拝してこの石柱を建てたこと、お釈迦様生誕の地であるこの土地は租税を軽減するということが5行に渡って記されていた。しかし、玄奘が書き残した「柱頭部の馬の像」はどうしても発見できなかった。

ルンビニのアショーカ王石柱に残る碑文

やはり、近現代を通じて、「馬の像が乗ったアショーカ王石柱」の実物を見た者はいないのだ。
西明寺の「阿育王石塔」は、ルンビニにかつてあったと伝えられている「柱頭部に馬の像が乗っているアショーカ王石柱」を想像で再現しようとしたとしか考えられない。
馬が4頭背中合わせになっている図は、サルナートの石柱柱頭部から考案されたものだろう。
このアイデアは誰のものなのか?
制作した寅吉のアイデアなのか、それとも依頼した当時の西明寺住職・釈大真がそのようなアイデアを出して寅吉に依頼したのか……。

おそらく、この謎は今となっては永遠に解明できないだろう。
言えることは、「柱頭部に4頭の馬の像が乗っている『阿育王石塔』なるものは、世界中にこれしかない」であろうということだ。
ルンビニの石柱はもともと4本あったという話も伝わっているので、オリジナルは馬が1頭ずつ乗った柱が4本だったのかもしれない。そうであったとしても別にいいのだ。大切なことは、明治末期、原点回帰をめざした日本の仏教僧たちが、遠くインドやセイロン(現・スリランカ)にまで足を運んでいたこと。ブッダ生誕の地とされるルンビニにあったアショーカ王石柱を日本の寺院に再現しようとしたこと。その際、単なるコピーではなく、欠損部を想像力で補って制作したという精神である。
サルナートの4頭獅子は非常に有名なため、日本にもコピーがいくつか存在する
しかし、西明寺の「阿育王石塔」は、そうしたコピーから一歩進んだ「想像再現」の制作物なのだ。そうした意欲的なものが、東北の石工の手によって造られたという事実。それだけで、十分にすごい発見と言えるのではないだろうか。



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