2011/05/05

原発を歴史的に見直す


東京築地市場にある「マグロ塚」↑(写真は http://tokyopastpresent.wordpress.com/ より転載)


ネットを見ていく中で、「東京の『現在』から『歴史』=『過去』を読み解く─Past and Present」というブログを見つけた。
ブログの筆者は中嶋久人さん。1960年生まれ。1996年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、館林市史編さん専門委員会専門委員……というProfileのかた。
原発震災以降は原発を歴史的に見直す試みが続いている。ものすごく読み応えがあるので、時間がある人はぜひ直接読んでいただきたいが、時間のない人のため、というよりも、川内村に住む自分のための忘備録的に、一部を抜粋させていただこうと思う。

まずは、『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月、樅の木会・東電原子力会編)という文書の紹介。福島第一原発建設当時のことを、用地買収などに動いていた東電社員が回想録としてまとめたものだそうだ。
この文書に出てくる当時(1963年)の大熊町の様子が興味深い。

//大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人々の生活は質素で人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。この地方は雨が少いので溜池が多く耕地面積が少いので若い人は都会へ出て行き、給料取りは役場、農協、郵便局のみで福島県では檜枝岐地方と対比してこの地域を海のチベットと称していた。しかし、人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。//

また、

この社員(S氏)は、1963年(昭和38)暮れにも。福島県の開発部から一人同行して大熊町を訪れて現地測量を行ったが、その際、宿舎に、突然大熊町長が四斗樽をもって現れ、
「陣中見舞に酒を持ってきました。私は東電原子力発電所に町の発展を祈念して生命をかけて誘致している。本当に東電は発電所を造ってくれるのですか」と問いかけ、「私の車を使ってください」と、新車のデボネア(三菱の最上級車種)を翌日回してきたとのこと。
その後、候補地の測量をしてみると、一部が双葉町にかかっていることが判明。そこで、県の担当者が中に入って、双葉町役場に測量させてくれとかけあったところ、双葉町の課長は「測量の作業員は大熊町からではなく双葉町のを使え」と主張。
そこで、社員S氏は県の担当者と一緒に双葉町長に改めて挨拶したところ、町長は測量を快諾。
そのときの様子:

// その夜は双葉駅前の旅館に泊まった。夕食時双葉町長が来て会食した。県の人が「大熊町長は陣中見舞に四斗樽を持って来たよ」と云ったら双葉町長はそれでは今夜の酒代は持たせて戴きますと云った。原子力にかける情熱は大熊町と双葉町では大きい開きがあった。もっとも当時の用地買収では大熊町分が大半で双葉町分はごく僅かであった。その後双葉町内敷地が大きく追加買収された。 県の人は出来るだけ地元両町が熱心に誘致していることを我々東電側に印象づけようと心配りに努めていた。//

実にリアルな描写だ。
東電社員が書いているのだが、もちろん批判的な立場ではなく、「こんなに苦労して原発を作ったのだよ」という苦労話として披露している。視点を変えれば、田舎の首長や住民なんてちょろいもんさ、という意識が透けて見える。
このときの大熊町、双葉町の両町長や、測量は自分の町の業者を使えと主張した双葉町の課長の姿は、今も日本全国の自治体で普通に見られる。
田舎の行政担当者は、これが政治だと思っているのだ。

……と、簡単に用地買収から工事開始まで進んだ第一原発に対して、第二原発はそう簡単ではなかったという。

中嶋氏のブログによれば、

福島第二原発については、用地交渉が難航した。山川充夫(現福島大学教授)の「原発立地推進と地域政策の展開(二)」によると、楢葉町波倉地区では用地交渉が進んだが、富岡町毛萱地区では絶対反対の決議が出され、町議会や県に反対陳情が出された。しかし、県知事を先頭に、強固な締め付けと特別配慮金1億円の積み上げによって、反対派の切り崩しがはかられ、1970年9月までに用地交渉はおおむね完了したと山川は指摘している。
(略)
この時期、東北電力も、福島第一原発の北側にある浪江・小高地区に原発を建設することを表明した。しかし、1968年1月には、原発設置予定地の浪江町棚塩地区を中心として「浪江町原発誘致反対同盟」が結成された。また、1971年4月には小高町浦尻地区に「原発対策委員会」が結成され、さらに同時期に小高町福浦農協総会で原発誘致反対決議が出された。そして、東北電力の原発計画は、結果的には中止された。


……ということだ。

ここで登場する資料は、福島第二原子力建設準備事務所初代所長に就任(1971年7月)した豊田正敏氏の回想録である『原子力発電の歴史と展望』(2008年)。
反対派への対応について、豊田氏はこう書いている。

//当時、用地問題はほぼ終わったとは言っても、敷地に隣接する富岡町の毛萱地区では集落をあげて強い反対があり、足を踏みいれることも出来なかった。富岡町の議員の中には原子力発電に強力に反対する社会党及び共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員がいた。しかし、こちらの方はしばらくして「俺は楢葉町の共産党員だ。地域の発展を考えてくれるなら反対しない」と言ってくれた。また、両町在住の高校の先生を中心に、「公害から楢葉町を守る会」、「相双地方原発反対同盟」などを結成し反対運動が繰り広げられた。//

こうした反対運動があったことは、今では地元でも知る人が少なくなっているのではないだろうか。富岡町史からは意識的に消されていて、東電側の資料に残っているという点にも注意したい。
『富岡町史』続編・追記編(1989年)にはこうある。

//今、わが町富岡はエネルギー基地。
町章の◎の円は、無限に発展するエネルギーを象徴したものである。
東京電力福島第二原子力発電所は、電源三法・固定資産税・労働雇用の場など町の大きな財源であり、この巨大プラントの建設完成は、地元経済の振興・地域住民の所得向上に、大きな役割を果してきたことは、言うまでもない事実であろう。
「富岡町民憲章」の中に<楽しく働き活力ある町をつくりましょう>とある。
(中略)
富岡町の町章

昭和四十九年度、制度発足した、電源三法(発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法)の公布により、電源立地による利益を地元に還元することによって、福祉の向上を目指した公共用施設が急速に整備され、私たちの生活環境は、従来に比して数段暮らしも向上し、憲章にうたわれている活力ある町づくりに役立っている。
明治の昔からあった“富岡人気質”-(住む人は一芸一業を持ち、平和に暮らそう)の合い言葉が電源立地による豊かな生活の中から聞こえて来るようである。//

//原子力発電所建設当時のように、年間平均、毎日七~八〇〇〇人といった大量雇用は維持し得ないが、原子力発電所の場合一基一定検あたり約三ヶ月一五〇〇人オーダーの定検作業員を必要とするため福島第一原発と合わせて、一〇基を数える浜通り地域では、定検期間が三ヶ月以上要するので、常時二~三基の定期点検を実施することで、地域の就労需要はほぼ満たしうると思われる。//

//「今日、原子力立地が実現していなかったら、この町は二〇年前と同じだったろう。原子力立地がこの町に果たした有形、無形の役割は極めて大きい」//


……で、我が川内村が、今なお双葉郡の原発立地連合から足ぬけできないでいるのも、この頃からの歴史を引きずっているかららしい。

中嶋氏のブログにはこうある。

『楢葉町史』によると、1967年11月25日に「富岡、楢葉、広野、川内の四ヶ町村で、南双方部総会(合の間違いか)開発期成同盟会結成(会長富岡町長)」となっている。『東京電力三十年史』では、四ヶ町村の町村長・全町村会議員が出席したと記載されている。そして、11月27日には、期成同盟会は、企業誘致を県知事に陳情した。このように、福島第一原発が建設された大熊町・双葉町など、双葉郡北部に対抗する形で、双葉郡南部の富岡町・楢葉町・広野町・川内村が団結し、企業誘致を陳情したのである。

 ただ、「企業誘致」であって、あからさまに「原発誘致」ではなかったことに注目されたい。広野町・川内村は、原発の恩恵に浴すことは特になかった。ただ、広野町に東京電力の火力発電所が建設されたことは、この「企業誘致」と関連があるのかもしれない。

『楢葉町史』では、1967年12月25日に、楢葉町長と富岡町長が南双開発に関する話し合いをもったとされている。その上で、翌26日に、楢葉町は「南双開発のため、第二原子力発電所建設地として、波倉小浜地内を部落地権者に発表、協力を要請」(『楢葉町史』)したのである。つまり、地元の富岡・楢葉町当局により原発誘致が決められ、まず部落地権者に根回ししたのである。それは、全体の立地計画が福島県知事から発表されるのに先んじている。部落地権者に根回しする際、「南双開発のため」とされていることに注目したい。建設される楢葉・富岡両町だけではなく、「南双」全体の利益になるとして正当化されたのである。


さらに注意したいのは、地元より先に、福島県が積極誘致していたという歴史的な事実だ。
長くなるが、中嶋久人氏のブログより、さらに引用させていただく。


福島県知事は、1968年1月4日に、「東京電力が第二原発建設を決定」(『楢葉町史』)と発表した。この経過からすると、地元の意見表明があってきめたようにみえるが、福島第一原発を誘致の際は福島県が主導しており、たぶん、内実は違うと思われる。『富岡町史』には、「こうした状況下の、南双(双葉郡南部)地区に原子力発電所の立地計画がもちあがり、地元の発展を待ち望んでいた各自治体は、実現に向けて誘致運動を展開する。当時の木村福島県知事も=相双地方の開発には原子力誘致が望ましい=と提唱、各町村長に働きかけたのがその発端になった」と記しており、知事側の慫慂が誘致の前提となったとしている。東京電力にせよ、福島県にせよ、かなり巧妙に、地元自治体をたきつけ、自ら誘致に名乗りをあげさせる形を作っていったといえる。
(略)
福島県におけるこの地域への誘致への慫慂の背景には、「相双地域『チベット』論」があった。1967年9月の福島県議会定例会で、滝議員は「特に双葉地方は仙台経済圏と常磐経済圏にはさまれた本県のチベットといわれているところだけにその(原発誘致)実現のために」(山川充夫前掲論文(二))と発言している。

福島県では、原子力開発が、地域経済に多大の波及効果をもたらすとしていた。福島県知事は、1968年2月の福島県議会定例会で、「原子力発電所の建設に関連して、どのような産業の開発に役立つかという問題であるが、本県においては、エネルギー・水資源・工場敷地及び労働力の面から見て、工場立地条件が恵まれているから関連産業の誘致発展も考えられるものと期待している」(山川充夫前掲論文(二))と述べている。単に、原発だけではなく、その開発が波及していくとしているのである。

『双葉原子力地区開発ビジョン調査報告書』(1968年3月)には、よりバラ色の将来が描き出されている。

当地区は、将来わが国の有数の原子力地帯として、特色あるエネルギー供給基地となることは疑いない。したがって、当地区は、原子力発電所、核燃料加工等の原子力産業、放射能を利用する各種の産業、原子力関連の研究所、研修所などが集積したわが国原子力産業のメッカとしての発展を思考することが最も適当である。

単に、原発だけでなく、原子力関連の研究所のある東海村や、原子燃料サイクル施設がある六カ所村をあわせたような開発を指向していたといえる。このような、「明るい将来」への期待を福島県は原発立地に込めていたのである。



……なるほど、
こういう歴史の果ての原発震災なのだ。

首都圏の人が、今回の原発震災後、こんなことをネットに書き込んでいた。
「東京の電気を福島が肩代わりして作っていたと言うけれど、我々、東京でずっと原発に反対していた人間から言わせれば、我々がいくら反対しても、福島がさっさと受け入れてしまうのだからどうしようもない」

歴史を振り返れば、まさにそうなのだ。
福島県が、なぜ国より先に「20km圏内を立入禁止にせよ」と言いだしたのか、作付け禁止を指示したのかも、なんとなく分かってくる。
県は、浜通りエリアを、外から金を引き込むための道具としてしか見ていないから、いざダメになったときもさっさと切り離そうとする。早く切り離して、補償金交渉をやりやすくしたい。県の負担を減らしたいのだろう。
その県の指示にひたすら従っているだけの「双葉地区連合」は惨めだ。
そこから抜け出して、自分の足で立ちあがる勇気と気概が、今の川内村にあるだろうか。

もうひとつ、放射能汚染の歴史についても、同ブログには非常に重要な記述がたくさん出てくる。

まず、1954年3月16日の読売新聞朝刊の記事:「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」
船員の一人がこう語る。

「一日の朝四時半ごろ、ちょうどナワを入れている時だった。遠い沖の方の水平線から真赤なタマがすごい速さで空へぐんぐん上がっていったと思うと見たこともないような色んな色のまじった白い煙がもくもく立ち上がったのでみんな『何だろう』と話し合った。ところが、一時間半ぐらいした時に甲板にいると空からパラパラと何かが降って来たので『小雨のようだ』と言いあった。
そのままふだん通り働いていたが三日ぐらいたった時、顔と手がふくれ、火傷のようになって来た。みんな南洋で陽に焼けていたし鏡をみることもないので自分でも気づかなかったが仲間が『おかしいぞ』というので気がついてみると頭が真黒に焼けていた。毛糸のジャケットとズボンをはいていたので体はなんともなかったが、出ていた頭と手がだんだんひどくなり、かゆくてたまらないので船でじっと寝ていた。『原爆でやられたんだろ』とみんながいうので船に降って来た灰も一緒にもって来て先生に渡した」


驚くのは、こんなとんでもない被曝をしていながら、この第5福竜丸は焼津港に放射性物質を付着させたまま普通に着岸していてなんの処理もされていなかったことだ。船員の多くは、汚染された服を着たまま焼津市内を歩いていた。
さらに驚くのは同日付の夕刊の記事だ。

出荷の魚販売中止―静岡分はすでに食卓へ

[焼津発] 第五福竜丸が焼津港に水揚げしたマグロは二千五百貫で十五日ひる四十六貫五百匁が大阪市内大水会社へ、約五十貫が四日市魚市場へ出荷されたほか名古屋、京都、東京方面を中心に静岡市内東海道沿線にそれぞれ少量ずつ出荷されている。
被曝当時マグロは福竜丸の魚ソウ(槽)に氷や紙などで、五重に密閉されてあったので焼津漁協組では大丈夫だとみているが、万一マグロが放射能を含んでいる場合を恐れ同漁組はじめ各団体は十六日朝あわてて出荷先に連絡、県外出荷分は販売中止に成功したもよう。しかし県内向けは十四日に出荷し、ほとんど売りつくされ各家庭でもすでに多く食べ終わっているとみられる。


 同ブログによれば、「東京築地魚市場仲買協同組合月報」第6号(1954年4月13日 『原水爆禁止運動資料集』第一巻所収)の「原爆被災漁の記録」に、「築地市場に焼津からマグロ・サメ類が16日の午前2時半届いたが、東京都衛生局市場分室の当直が現場に急行して、手をふれないように指示し、10時より専門家がガイガー・カウンターで検査した結果、マグロ・サメともに高濃度の汚染が認められたので、市場内野球場のネット裏に深夜穴をほりマグロ・サメを埋めた」ということが記録されているという。

被曝したのは第五福竜丸だけではなく、三崎の俊洋丸はじめ、当時、ビキニ海域では850隻あまりの漁船がいて、ことごとく被曝。460トン近くの汚染漁が見つかったというのだ。
このページの最初にある写真は、そのことを伝える「マグロ塚」。

半世紀以上前に、「FUKUSHIMA」どころではない放射能汚染が「日常的」にあった。米ソが始め、中国や英仏なども後を追った水爆核実験競争による放射能汚染は、原発事故どころではなかった。
以前にも紹介した「気象研究所地球化学研究部」が、1950年代後期から40年以上にわたって大気圏での人工放射性核種の濃度変動の観測をしている、データを見れば歴然なのだが、1960年代の放射線量は2000年代に入ってから(3.11以前)の「平常時」に比べ、1000倍、1万倍というレベルだったらしい。
この第五福竜丸のニュースを読んでも、それが誇張ではなく、本当だったと思える。
急性症状が出るほどの放射線障害を受ける核実験があたりまえのように行われていたのだから、とんでもない量の放射性物質が大気中に放出されていたはずだ。
この事実がなぜもっと報道されないのだろう。
僕らはすでに、人生において相当な被曝を受けてきたということではないか。
そして「FUKUSHIMA」以降は、そのときのさらに1000倍、1万倍レベルの被曝を受け始めたということなのだ。

1950年代末から現在まで、東京での大気中の放射性物質量の推移
チェルノブイリ級あるいはそれ以上の汚染が長期間存在していた!




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