2011/02/08

京都西明寺にある「阿育王石柱」の謎 とりあえずのまとめ

京都西明寺にある「阿育王石柱」の謎、現時点での総まとめを。


「京都を歩くアルバム」より
この石柱を巡る謎で、特に注目される点は次のようなものだ。
  1. 現存するアショーカ王石柱で、柱上に獅子や牛が乗っているものはあるが、馬が乗っているものはない。なぜこのようなものが造られたのか
  2. この石柱建立は誰の発案なのか
  3. 奥州の石工である小松寅吉がなぜ明治時代に京都まで呼ばれたのか

それぞれについて、しつこく調べて考察してみた。
まず、上に馬が乗っているアショーカ王石柱は本当に現存していないのかということ。
アショーカ王石柱についての英文Wikiをはじめ、ネット上で検索できる限りの検索をして調べてみた。

最初に2点断っておくと、
まず、石塔寺(いしどうじ)(滋賀県東近江市石塔町860)は山号を「阿育王山」と称し、日本最古の石塔とされている「阿育王石塔」があるが、この「阿育王石塔」と、いわゆる「アショーカピラーズ」は関係がない。
Wikiには、

平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。
以上の伝承のうち、「インドの阿育王」云々が後世の仮託であることは言うまでもなく、件の石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納された。

とある。
また、オーパーツ(科学や歴史の知見からすれば存在するはずのない遺物)として、インドのデリーにある「錆びない鉄柱」も「アショーカ・ピラー」と呼ばれているが、これも、アショーカ王が建立した石柱群である「アショーカ・ピラーズ」とは関係がない。

アショーカ王石柱(アショーカ・ピラー)について、英文Wikiに書いてあることを要約すると以下のようになる。

アショーカ王石柱群とは、インド北部に散在する一連の円柱遺跡のこと。マウリヤ王朝第3代アショーカ王が建立した、あるいは少なくとも碑文を刻ませたと考えられている。
当初は多数存在したと思われるが、銘文が刻まれた状態で現存するのは19柱である。その多くは壊れており、完全な形で建っているのはほとんどない。高さは12m〜15m(40〜50フィート)、重さは50トン程度のもの。砂岩でできており、チュナール(ガンジス河中流域、アラハバードとバラナシの中間くらい)の石切場から切り出されて、各建立地に運ばれたと考えられる。
デリーに2柱(元々はメートラとトプラにあったものを、1356年、Firuz Shah Tughluqがデリーに運ばせたと思われる)、アラハバードに1柱(元々はコーサンビーにあったと思われる)、 ラウリヤ・アララージ、ラウリヤ・ナンダガル、ランプルーヴァ(柱頭に獅子像)、サンカーシャ(柱頭に獅子像)、サンチー、サルナート、ニガリサーガル、クンムラハール、ゴーティハワ、ヴァイシャリなどに現存している。
ルンビニとニガリサーガルの石柱には奉納のいわれを記した碑文が残されているが、ヴァイシャーリとランプルーヴァの石柱にはない。
石柱に使われた石は2種類ある。ひとつはマチューラ地区で切り出された赤白斑点の砂岩。もうひとつはバラナシ近くのチュナールから切り出された小さな黒点を持つ硬質砂岩。
柱頭部の様式が同じなので、これら石柱群はすべて同じ地域の石工によって建立地で加工されたと考えられる。
柱は4つの部分から成っている。竿部分はシンプルに、断面部は丸く加工され、上に行くにしたがって細くなっているが、全体が一つの石から刻まれている。柱頭部は蓮の花弁状に丸みを帯びて刻まれている。台座はシンプルな四角か装飾が施された円形のいずれか。その台座と一体に彫られた動物の像が柱頭にある



さて、西明寺にある「阿育王石塔」はアショーカピラーのコピーなのかについて、改めて時間をかけて調べてみた。
ネット上にあるアショーカ王石柱の写真をできる限り採集してみたが、柱頭部に馬の像が乗っているものは、やはりひとつもなかった。
文章だけでもそういう記録があるかと思って探したが、ルンビニの石柱に関する記述以外に馬の像という記述は見つけられなかった。

↑ランプルーヴァの石柱、柱頭部は獅子と牛


↑サルナートの石柱 柱頭部は有名な4頭の獅子


↑ルンビニの石柱


↑ヴァイシャーリの石柱 柱頭部は獅子1頭


↑サンカーシャの石塔 柱頭部は獅子(左)と象(右2つ)


↑ラウリヤ・アララージ(左)とラウリヤ・ナンダガル(右)それぞれの石柱
ラウリヤ・ナンダガルの石柱柱頭部は獅子像1頭

↑クンムラハール(左)、ニガリサーガル(中)、ゴーティハワ(右)の石柱。 どれも柱頭部は喪失


↑サンチー(左)、コーサンビー(中、右)の石柱。いずれも柱頭部は喪失


写真:Wikimedia Commons 株式会社トラベルサライ 『青い蓮』 青蓮寺NOW 福島 毅さん など


この中で、ルンビニの石柱については、唐代の玄奘三蔵(『孫悟空』に出てくる三蔵法師のモデルとして日本でも有名)が636年に訪れ、『大唐西域記』という紀行文に「柱頭部には馬の像が乗っていたが、落雷で折れてしまった」と記している。現存する石柱の竿部分にある碑文にも、馬の像を彫ったと記されている。
アショーカ王石塔と馬の像を結びつけるものはルンビニの石柱しかなさそうだ。

『大唐西域記』にあるルンビニの描写からは、すでに聖地としての輝きが失せて、荒廃が始まっていたことがうかがわれる。
その後、イスラム勢力によってルンビニは破壊され、廃墟と化した。7世紀に落雷で折れてしまっていたアショーカ王石柱も、そうした破壊にあって埋もれ、やがて人々の記憶から消えていった。
しかし、『大唐西域記』の記述を元に、1896年、インド考古局のフューラーがルンビニで発掘調査を行い、アショーカ王石柱が発見された。
柱部分に残された碑文に、即位20年にて、アショーカ王自らがブッダ生誕の地である当地を参拝してこの石柱を建てたこと、お釈迦様生誕の地であるこの土地は租税を軽減するということが5行に渡って記されていた。しかし、「柱頭部の馬の像」はどうしても発見できなかった。

ルンビニのアショーカ王石柱に残る碑文
福島 毅さん提供

やはり、近現代を通じて、「馬の像が乗ったアショーカ王石柱」の実物を見た者はいないのだ。
西明寺の「阿育王石塔」は、ルンビニにかつてあったと伝えられている「柱頭部に馬の像が乗っているアショーカ王石柱」を想像で再現しようとしたとしか考えられない。
馬が4頭背中合わせになっている図は、サルナートの石柱柱頭部から考案されたものだろう。
このアイデアは誰のものなのか?
制作した寅吉のアイデアなのか、それとも依頼した当時の西明寺住職・釈大真がそのようなアイデアを出して寅吉に依頼したのか……。

おそらく、この謎は今となっては永遠に解明できないだろう。
言えることは、「柱頭部に4頭の馬の像が乗っている『阿育王石塔』なるものは、世界中にこれしかない」であろうということだ。
ルンビニの石柱はもともと4本あったという話も伝わっているので、オリジナルは馬が1頭ずつ乗った柱が4本だったのかもしれない。
そうであったとしても別にいいのだ。大切なことは、明治末期、原点回帰をめざした日本の仏教僧たちが、遠くインドやセイロン(現・スリランカ)にまで足を運んでいたこと。ブッダ生誕の地とされるルンビニにあったアショーカ王石柱を日本の寺院に再現しようとしたこと。その際、欠損部を想像力で補って制作したという精神である。
サルナートの4頭獅子は非常に有名なため、日本にもコピーがいくつか存在する
しかし、西明寺の「阿育王石塔」は、そうしたコピーから一歩進んだ「想像再現」の制作物なのだ。そうした意欲的なものが、東北の石工の手によって造られたという事実。それだけで、十分にすごい発見と言えるのではないだろうか。

正直なところ、寅吉の「阿育王石塔」の話は何年も前に断片的に聞かされていたのだが、私はそれほど興味を持てなかった。「狛犬じゃないのかあ……」というノリだった。
しかし、今回、一気に謎が解明されてきたことで、私の中の寅吉の人物像にも大きな変化があった。
寅吉はただの「東北の偏屈な石工」ではなかった。
まず、西明寺から出された葉書の文字に驚いた。宛名と本文は完全に書体を変えている。本文は草書体で、現代人ではほとんど読解不能の代物だが、実にしっかり書かれている。江戸時代に生まれた寅吉がどこでこのような教養を身につけたのか……。
さらには、70を目前にした老齢の寅吉が、はるばる京都の地まで足を運んで石柱を制作し、建てたという事実。
その柱頭部の像は、何かのコピーではなく、当時、発見されたばかりのサルナートのアショーカ王石柱をモデルにしながら、獅子を馬に置き換えて彫り上げていること。
剛胆さと緻密さが同居した寅吉の精神力に、改めて感服してしまった。

旅行雑誌「るるぶ」に載っていた小さなモノクロ写真にあった狛犬らしきシルエットを追いかけて古殿町をめざしたのが「寅吉・和平ワールド」への第一歩だったが、ついには日本の近代仏教史を学ぶところまで広がってきた。
今なお終わりが見えない寅吉・和平ワールドの深さ、広さにも、感嘆する。

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