2014/03/30

『赤毛のアン』の訳者比較

明日から始まるNHKの連続テレビ小説『花子とアン』は、『赤毛のアン』の最初の訳者として知られる村岡花子さんの生涯を描くものだそうだ。
『赤毛のアン』というと、僕にとっては親友である茅野美ど里さんが念願叶って翻訳を手がけた作品、という認識が最初にある。というか、彼女が翻訳したものを送ってくれるまで、『赤毛のアン』に興味を持ったことはなかったし、正直、今もそれほどあるわけではない。
で、茅野さんが以前、「『アン』シリーズは村岡さんの訳が神聖視されているようなところがあって、なかなか他の人が手を出せる感じではなかった」というようなことを言っていたのを思いだした。
茅野さんは大学の1年先輩だが、そのさらに先輩の谷口由美子さんも『赤毛のアン』を訳している。
谷口さんとは一時期、上智で一緒に非常勤講師をやっていたことがあり、何度か話をする機会があった。
もしかすると「村岡さんの訳が神聖視されているようなところがあって……」という話は、茅野さんではなく、谷口さんから聞いたのかもしれない。そのへん、ちょっと記憶があやふやだ。

『赤毛のアン』の日本語訳を手がけた人はどのくらいいるのだろうと改めてWikiを見てみたら、

(1952年) 村岡花子訳 - 日本にアンを普及させた訳として知られているが、完訳ではなく所々に省略箇所がある。三笠書房、新潮文庫(1954年)。
(1957年) 中村佐喜子 訳 - 角川文庫。
(1969年) 岸田衿子 訳 - 学習研究社
(1973年) 神山妙子 訳 - アニメ作品の底本となった訳。旺文社文庫、新学社文庫。旺文社文庫版は絶版入手困難。グーテンベルク21のデジタルブック版は入手可。新学社文庫版は中学生用図書教材であり、一般書店では流通しておらず、最寄りの新学社教材取扱店が注文を受けてくれれば個人でも現在入手可。
(1975年) 猪熊葉子 訳 - 講談社文庫(旧版)。
(1987年) 茅野美ど里 訳 - 偕成社。
(1989年) 石川澄子 訳 - 東京図書。
(1989年) きったかゆみえ 訳 - 全訳に近い抄訳。金の星社。
(1990年) 谷詰則子 訳 - 篠崎書林。
(1990年) 谷口由美子 訳 - 少年少女世界名作の森 14。集英社。
(1990年 - 1991年) 掛川恭子 訳 - 完訳シリーズ。ただし、トビラでのブラウニングの詩の引用がない。講談社(2005年4月から文庫化)。
(1992年) 曾野綾子 訳 - 抄訳。河出書房新社・河出文庫、新学社世界文学の玉手箱シリーズ。
(1993年) 松本侑子 訳 - 訳者の研究による注釈が豊富な訳本。文学引用を解説している。集英社。


……と、結構ある。


⇒このブログ に、村岡花子、掛川恭子、松本侑子 3氏の訳の比較が出ていた。
これに茅野さんと谷口さんの訳を並べてみると、とても興味深い結果になった。


原文:
A child of about eleven, garbed in a very short, very tight, very ugly dress of yellowish gray wincey. She wore a faded brown sailor hat and beneath the hat, extending down her back were two braids of very thick, decidedly red hair. Her face was small, white and thin, also much freckled; her mouth was large and so were her eyes, that looked green in some lights and moods and gray in others.
So far, the ordinary observer; an extraordinary observer might have seen that the chin was very pointed and pronounced; that the big eyes were full of spirit and vivacity; that the mouth was sweetlipped and expressive; that the forehead was broad and full; in short, our discerning extraordinary obeserver might have concluded that no commonplace soul inhabited the body of this stray woman-child of whom shy Matthew Cuthbert was so ludicrously afraid.

村岡花子・訳 (1952年三笠書房刊、1954年新潮文庫版)
 年は十一歳くらい。着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。色あせた茶色の水兵帽の下からきわだって濃い赤っ毛が、二本の編み下げになって背中にたれていた。小さな顔は白く、やせているうえに、そばかすだらけだった。口は大きく、同じように大きな目は、そのときの気分と光線のぐあいによって、緑色に見えたり、灰色に見えたりした。
 ここまでが普通の人の観察であるが、特別目の鋭い人なら、この子のあごがたいへんとがって、つきでており、大きな目には生き生きした活力があふれ、口元はやさしく鋭敏なこと、額は豊かに広いことなど……

茅野美ど里・訳 (1987年刊、偕成社)
 十一歳ぐらいの女の子で、綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。頭には色あせた茶色い水兵帽をかぶっており、帽子の下から、まっかもまっか、すごい赤毛の太い三つ編みが二本、背中にたれていた。顔は小さくて青白く、やせていて、そばかすだらけだった。目も口も大きく、目は角度と気分によって緑色にも灰色にも見えた。
 ここまでが、ごくふつうの人の観察である。もうすこし観察眼のするどい人なら、この少女のあごがとがって、きわだっていること、大きな目には元気と活力がみなぎっていること、くちびるが愛らしく情感にあふれていること、ひたいが広くて豊かなことに気がついたはずである。つまり、洞察力にすぐれた人が見れば、マシュー=カスバートがばかみたいにおそれている、このさすらいの少女のからだには、人なみはずれた魂がやどっていることがわかったはずなのである。

谷口由美子・訳 (1990年刊、集英社 少年少女世界名作の森 14)
 歳は十一歳くらいで、たけのつまった、きゅうくつそうな、粗末な黄色っぽい服に、色あせた茶色い水兵帽をかぶり、赤いかみを太い二本のおさげにしています。顔は色白で細く、そばかすだらけ、口も目も、とても大きく、特に目は、光や気分によって、緑色にも灰色にも見えます。
 さらに、もっとするどい観察をすれば、その少女のとがったあごは、強い意志を示しており、目は生き生きとかがやき、口もとはあまく、表情豊か、額が広く張っているということがわかるでしょう。

掛川恭子・訳 (1990年刊、講談社)
 年は十一歳ぐらい。白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。色のあせた茶色い麦藁帽をかぶり、帽子の下から、見まちがいもないほど真っ赤な太いおさげが二本、背中までぶら下がっている。小さな顔は青白くて、やせていて、そばかすだらけだ。口は大きく、同じように大きな目は、光の具合やそのときの気分で、緑色に見えたり、灰色に見えたりする。
 そこまでわかるのは、普通の観察力のある人だ。もっと観察力の鋭い人には、それ以上のことがわかるだろう。あごがとてもとがっていて、頑とした意志を感じさせる。大きな目は気迫にあふれて、いきいきと輝いている。口もとはやさしくて、表情豊かだ。額はゆったりと広い。

松本侑子・訳 (1993年刊、集英社)
 年の頃は、十一歳くらい。黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。色あせた茶色のセーラー帽をかぶり際立って赤い髪を、二本の太い三編にして背中に下げている。小さな顔は青白くて、肉が薄く、雀斑が散っている。口は大きいが、目も大きく、その瞳は、光線や気分によって緑色にも灰色にも見えるようだ。
 普通の人が見ればこの程度だが、洞察力のある人なら、こんなこともわかるだろう。あごは尖っていて凛々しいこと。大きな瞳は生き生きと生気に満ち、唇は愛らしいが、口元は表情に富み、そして額が広く豊かなこと。


……とまあ、こんな感じだ。
茅野訳、谷口訳以外は、引用元のブログで1つの文章の途中までの訳しか出ていないので最後のところは比較できなかったが、訳文の違いを見ていくとすごく興味深い。
茅野さんが一字一句、かなり原文に忠実に訳そうとしているのに対して、谷口さんは細かいところは省いたほうが読者に伝わると思えばスパッと切り捨てて訳したほうが親切だと考えているようにも思える。

このシーンは、アンが最初に登場するシーンで、ひっそりと暮らす初老の兄妹が孤児院から男の子を引き取ったつもりだったが、兄が駅に迎えに行くと、待っていたのは男の子ではなく赤毛の女の子だった……という場面。
だから、読者にどう印象づけるかがすごく重要になってくる。
小説を書くとき、こういう説明を並べただけの文章というのは結構難しい。どう書けば読者の頭にすっとイメージが浮かぶか、登場人物像をうまく印象づけられるか……テクニックの見せ所となる。

なぜか掛川恭子訳だけ sailor hat を「麦藁帽」と訳している。麦藁帽とセーラーハットでは全然違うが、単純なミスだろうか。ミスだとしてもすごく不思議なミスだ。

服の描写が、

着ている黄色みがかった灰色のみにくい服は綿毛交織で、ひどく短くて窮屈そうだった。(村岡訳)

綿と毛の混紡織りの、なんともさえない、つんつるてんの黄ばんだ服を着ている。(茅野訳)

たけのつまった、きゅうくつそうな、粗末な黄色っぽい服(谷口訳)

白だか黄色だかわからない綿と毛の混紡の布で作った、とても短くて、とてもきちきちで、とてもみっともない服を着ている。(掛川訳)

黄ばんだ白の服を着ている。綿と毛の混織地で、丈が短く、幅もきちきちで、みっともない代物だ。(松本訳)

……というのも面白い比較になりそうだ。

その後、家まで馬車で送られる道中、アンが迎えに来てくれたマシュー(60歳・独身。妹と同居の小心で風采の上がらない男)に、
「いつか白いドレスがほしいんです。白いドレスを着られたら、最高のしあわせだと思うわ。あたし、きれいな服って大好き。おぼえてるかぎり、一度もきれいなドレスなんて着たことないけど、これから着られるかもしれないって思えば、そのぶんたのしみにできるでしょ? (略)けさ、孤児院をでたとき、このぼろっちい、みにくい、混紡織りの服を着なくちゃならなくて、ほんとうに恥ずかしかった!」(茅野美ど里・訳)
と告げている。
この部分の伏線にもなっているから、着ている衣服のことはちゃんと読者に印象づけなくてはいけない。
服を形容する very ugly の訳として、出版順に見ていくと、

「みにくい」(村岡)⇒「なんともさえない」(茅野)⇒「粗末な」(谷口)⇒「とてもみっともない」(掛川)⇒「みっともない」(松本)
 ……となっている。


ugly の訳語としては「醜い」「見苦しい」「醜悪な」「不快な」「いやな」……といったものが辞書に載っているが、日本語にするとき、この場合はどんな形容をすればいいのか……そのへんに訳者のセンスが現れる。
最初の訳者である村岡さんは辞書の訳そのままに「みにくい」と訳した。
茅野さんは、このuglyを「みにくい」と訳してはまずいだろうと考えて「なんともさえない」と、柔らかく訳した。
谷口さんは、本来uglyの訳語では出てこないであろう「粗末な」という言葉を使った。この場面ではこれが適切だという判断からだろう。

中学生のとき、「小説というのは描写することであり、説明してはいけない」と教えられた。
著者の主観が入った形容詞や説明はなるべく抑えるべきだとすれば、「みっともない」というのはかなり主観的な形容詞のようにも思える。
また、後から訳す人ほど、それまでの訳者の文章を参考にできるわけで、ちゃんと原文にあたって自分の訳を心がけないと、思わぬ誤訳をコピペしてしまう可能性もある。
……そんなことを考えながら訳文を比べていくと、一日どころか何か月でも遊べそうだ。
それにしても、翻訳というのは滅茶苦茶大変な作業だなあ、と、たったこれだけの文の訳を比べてみただけでも思い知らされる。
原文があるから楽なのではなく、原文があるから大変。小説を書くのはゼロからだから全部自己責任でできる分、むしろ楽なんだな、と思った。翻訳家の苦労を少しだけ垣間見られた気がして、いい一日になった。

上の写真は我が家の本棚の一角。茅野さんから謹呈された本が並んでいる。
『赤毛のアン』は最初の謹呈本だったと思う。
引っぱり出したら、ページはすでに黄ばんでいた。
「謹呈 訳者」と印刷されたしおりには「☆一度でいいから、こういうの、やってみたかった!」と書き添えてある。
ちなみに「こういうの」とは、翻訳のことではなく、「訳者謹呈」のことだ。
手紙も挟んであった。日付は1987年9月10日となっている。
「ここまで来るのは、本当に長かったけれど、やっと道が開けてきたみたい」と、素直に喜びを綴っている一方で、夫の実家がある地方都市に引っ越した後の生活は、その喜びを分かち合ってくれる人がそばにいないと、孤独についても書いてあった。
この孤独は、僕もずいぶん味わってきたし、今もそのまっただ中なのでとてもよく分かる。

乗り越えるには、井津先生の言葉「大勢にではなく、ひとりに向かって」を噛みしめることかな。
今は「一人に向かって」というよりは「自分の心に向かって」に近い。
自分にとって最高レベルの自己満足ができればいい……という心境。

さて、この日記を書くために『赤毛のアン』の冒頭を読んでみたのだが、ああ、小説ってこうじゃなくちゃね、と改めて思った。
描写の連続で構築する世界。
説明してはいけない。描写する。そこにどれだけのメッセージを込められるかが小説家の腕。
……ということを教えてくれたのは、聖光学院中学、高校の国語教師・臼井先生だった。
偏屈で人気のない先生だったけれど、彼のこの言葉だけはしっかり覚えている。
さらには、小説はエンターテインメントである、というのが僕のモットーでもあり、あからさまに作者の主義主張が述べられているような小説は、小説ではなくてノンフィクションやコラムとして書けばいいと思っている。
かといって「面白いだけの小説」を書きたいとも思わない。メッセージやテーマがない小説はゲームやパズルのようなもので、それはそれで必要だし、良質の娯楽を作る大変さは分かっているけれど、やっぱりテーマがないとね……って思ってしまう。
……ん? なんかこの「小説とは……」という話題で、昔、茅野さんと意見が噛み合わなかったような記憶もうっすらと……。
そうね。面白ければいいのよね、小説は。
つまらないのは論外。

しかしまあ、よい小説を書ける、出せる世の中でないとね。まずは。



追記:
この日記をUPした当初は原文が分からなかった。ありがたいことに、UPした数時間後に、ドイツ在住のFB友達・白鳥さんが原文を送ってくれたので、さっそく追記と書き換えを行った。
//私も昔、村岡花子訳にはまり、中学三年の時に渋谷で原書を手に入れ、その頃の語学力では全く歯が立たなかったにも関わらず、冒頭を暗記しようとしたり、少しでも「アン」の世界に近づこうとした「赤毛のアン」マニアでした。大学生になってからアルバイトでお金を貯め、プリンスエドワード島にまで行ってしまいました。//

……とのことで、『アン ファン』はいっぱいいるのだなあと、改めて思い知らされた次第。
ちなみにその原文ペーパーバックの表紙裏には茂木健一郎氏のサインが入っているとか。茂木氏もアン ファンで、白鳥さんと同じ原書を持っていた縁で、だとか。

追記2(2014/04/02):
最初にこの日記を書いた数日後に、谷口さんの訳した本も届いたので、一部を書き換え、加筆した。

1987年、謹呈された『赤毛のアン』と挟まれていた手紙


こういうの、やってみたかった! と書かれていた。27年前か……



↑美ど里さんが作詞し、僕が作曲した『Two Note Waltz』


谷口さんの『アン』も今日届いたので、並べてみた。

『アン』を訳すことがどれだけ嬉しいことか、訳者の「解説」を読むとじんじん伝わってくる。
ほんの一部抜き出してみる。

 わたしが『赤毛のアン』をはじめて手にしたのは、ちょうど二十年前の夏でした。すっかり黄ばんだページ、セロテープで修繕した背表紙、そのぼろぼろのペーパーバックを使って訳をするのは、ちょっとした感慨がありました。また、自分の大好きなアンをこの手で訳せるというのは、ほんとうにうれしいことでした。
 翻訳はただ読む以上に、すみずみまで味わうという作業ですが、そんなふうにいやというほど読んでもなおおもしろいのは、『赤毛のアン』の魅力を証明して余りあるものだと思います。
『赤毛のアン』を訳していて、わたしが切ない気持ちになったのは、プリンス・エドワード島のあまりの美しさです。窓の外を見て、アンのように酔いしれることができる人は、この日本に何人いるでしょうか。海や山にでかけずとも庭先に自然があるというのが、いまや最高のぜいたくといえるでしょう。
(茅野美ど里)


アンは現実のものを何かにたとえたり、空想で変えたりして、それをより美しいものにしてしまうのです。アンは、人生に明るい面を見いだす天才でした。
(谷口由美子)

新しい連続テレビ小説のスタートに合わせて、本棚から引っぱり出した1冊。そこからごく短時間でこれだけ楽しめ、今まで考えたことのなかったことを考えることができ、なんだかすごくお得な気分になった。



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