2014/12/11の2

泥水の中から甦った恩師の言葉 ~「42年もの」のタイムカプセル(3)


最後に残ったのは、400字詰め原稿用紙が何枚か二つ折りになった状態で水を吸い、ほとんど粘土というかパルプに戻る寸前みたいになった物体。
紙の体裁を留めていないので、1枚ずつはがすこともできない。
それでも、裏に透けている文字が一部見えているので、その部分だけでも読めないかな……と、ドライヤーをあてながら紙をはがすことを試みた。

2枚くらいはがしたところ。まだ届かない


でも、この段階で赤ペンらしい文字が見えて、「はっ!」とした


慎重に開いて……あ~! やっぱり!! 井津先生の字だ!!


透けて見えていた黒い字は、小松くんの字だった。これは僕の小説に対する批評


今、聖光学院の校長・理事長をしている工藤くんが「文芸同志会」というサークルを立ち上げたのは中学2年生のときだった。
誘われたのは僕の他に小松くん、池沢くん……。僕は音楽に専念したかったので最初は嫌だと言ったのだが「よしみつがいなけりゃ成立しない」とかなんとかおだてられて、嫌々つき合うことになったのだった。
サークルの顧問は井津佳士(いず よしひと)先生。
僕は主に小説を、小松くんは詩を発表していた。
作品は、当初は「新緑」という名前の青焼きコピーで作った会誌(後にガリ版刷り)に掲載されて、会員の数だけ作っていた。
何年目かで、小松くんが「新緑はダサい」と言って『塔』という名前になった。

その頃、『新緑』や『塔』に小松くんが発表した詩のうち2編は、卒業後、僕が自分の作詞能力の限界を感じたときに掘り起こしてメロディをつけ、曲になった。
『鶴の飛翔』と『無言歌』。2曲とも『So Far Away たくき よしみつSONGBOOK1』と『狸と五線譜』に収録してある。

工藤くんが始めた「文芸同志会」は、結局、僕らが高校を卒業するまで続いた。
聖光では毎学年クラス替えがあったが、工藤くんとは中学1、2年、高校2、3年と、6年間のうち4年間一緒のクラスだった。
逆に、井津先生とは縁がなく、一度も担任だったことがない。だから、井津先生とのつきあいは、「文芸同志会」の顧問と生徒として、という関係がほとんどだった。
井津先生は最後まで顧問としてつき合ってくださった。
ただ、一対一でじっくり話した記憶はない。
それなのに、卒業後、何をやってもうまくいかなくなっていた30代になって、井津先生のことをよく思い出した。
1991年6月、僕は突然、井津先生に長い長い手紙を書いた。受け取った先生はさぞ驚いたことだろう。
しばらくして、長い長い返信をいただいた。
このときの手紙のやりとりは、僕の『狸と五線譜』(三交社)にそっくりそのまま掲載されている。



↑『狸と五線譜』


上の画像のうち、先生からの返信冒頭部分は、『狸と五線譜』からではなく、『生愚記 井津佳士遺稿集』からコピーした。


そう、井津先生は亡くなってしまった。ちょうど今の僕と同じ歳だった。


たくき よしみつ様

 お元気ですか。「草の根通信」ご送付下さりありがとうございました。さっそく『狸と五線譜』拝読しました。
 いま私はほんの少し病気です。たぬ君のような、「ノタノタといい加減に生活し、快適な愛情の交換をし合い、そのくせ他人に縛られたり何かを強制されることはない自由な生き方」を見失ったためにかかり、治すためにはこの生き方しかない病気(軽症につき心配ご無用に願います。)です。たぬ君の境地に一日も早くたどり着きたいものです。
 現在は、まともな作家にとってほんとうに情けない冬の時代です。紆余曲折を余儀なくされるでしょうが、初心(五木さんは「志」といいましたね)を忘れずにがんばってください。もう少し元気になりましたら、またお便り差し上げます。
 ご健筆をお祈りします。

        1994年2月17日  井津佳士

遺言となった井津先生のこの手紙(病院のベッドでワープロ打ちしたらしい)はコピーして今も目の前に置いてあるのだが、ダメ人間である僕は、そのことを忘れて日々過ごしている。

改めて井津先生からもらった赤ペン批評を読む。



ストーリーテラーとしての一応の成功を収めている。しかし、矢野の不遇が追悼展によって報いられ、その直後に……大学を……というふうになっているのは、あまりにも通俗的ではないか。
……矢野もずいぶん通俗的で、魅力に(欠ける)。

……文学とは……であり、そういう意味で「毒」を含んでいなければならない。作品の中の「現実」と作者との距離があまりにも近すぎて……。
遺書の文体を変えること。
熟さないことばや言い回しを避けること。(井津)

なんとか読み取れるのはこのくらいだったが、先生がおっしゃりたいことは概ね伝わってきた。
ただし、この批評を受けている小説作品についてはまったく、見事なまでに何も覚えていない。
「矢野」というのは主人公の名前らしいのだが、これがどういう話なのかも全然記憶にない。もちろん原稿も残っていない。

で、改めて思うのは……。

この批評はおそらく高校2年生のときではなくて、もっと前のものだと思う。それをずっと取ってあって、高校2年の秋に、相性の悪い担任が言い出したタイムカプセルに入れた……そのときの僕の真意はなんだったのだろう。
27年後にこれを掘り出して、「あのときはこんな風にボロクソ言われたけれど、俺はしっかり成功したぞ」と見返したかったのだろうか? それとも、この時期、受験勉強の辛さや学校からのいじめ(?)に耐えるのが精一杯だったときにも、自分はこうして一癖もふた癖もある魅力的な友人や情熱を持った教師に恵まれた環境で創作活動をしていたんだという証拠を残したかったのだろうか?

今となってはよく分からない。
ただただ、井津先生の赤ペン批評に再会できて嬉しい。

先生は今の僕の歳、死と直面していた。そのことにも思いをはせる。
自分が今、死を宣告されたらどんな風に死と向き合えるだろうか……と。

それともうひとつ思ったのは、もしこのタイムカプセルが予定通りに2001年に掘り出されていたら、そのときの自分はどんな気持ちでこれらの品や文章に接していただろう、ということ。
2001年当時の自分はどんなことをしていたのか……WEBに少し日記が残っていたので読み返してしまった。
新人賞を受賞した後、またもうまく世渡りできず、辛かったときだ。精神科の門を叩き、抗欝剤を飲んでいちばん危ないときをなんとか乗り越え、まだまだくたばらないぜ、とあがいていた時期。
そんなときにこれを掘り返さなくてよかったと思った。
今だからこそ、穏やかな気持ちで過去を振り返れる。
でも、まだまだ死をきれいに迎えられるほど人間ができてはいない。

井津先生の批評のところだけ、なんとか切り取って台紙に貼り、クリアケースに入れた。他のものは全部ごみ箱へ。
さあ、思い出に浸り感傷的になるのはここまで。明日からまた「今」を生きなくちゃ。




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