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のぼみ~日記2018


2018/10/29

叔父夫妻来る


久しぶりに客人が来るというので、助手さん、急遽ボロボロのクッションに余った帯地を巻き付けて……

デジタルワビサビⅡのCDを叔父(親父の弟)宅にも送った。その際、親父の近況などを書いた手紙を添えたのだが、いきなり手紙が届いてビックリしたらしい。電話がかかってきて、今のうちに一度会いに行くという。
叔父は今年12月に満87歳。電話の声は元気そうだが、心臓に爆弾を抱えている。兄弟が普通に会話できるうちに会っておくのはいいことだ。
ただ、最近の親父は少しでも日常と違うことが起きると、夜になってからパニック症状を起こし、寝ないで歩き回ったり、歌を歌い始めたり、大変らしい。それでも、会えるときに、話ができるうちに兄弟が会っておくことの意義のほうがずっと大きいだろう。施設のスタッフには迷惑をかけるが、そこはなんとか耐えてもらうことにして……。

よく晴れた月曜日、叔父夫妻はやってきた。
迎えに行った駅の前、車の中でしばし注意事項というか、事前レクチャーをしてからデイホームに向かう。

親父は一瞬何が起きたか分からないようだったが、すぐに叔父を認識して、それからは談笑タイムが続いた。僕は邪魔しないように、前半は席を外した。

叔父と親父は、父親のことなど、昔の思い出話をしていたらしい。
叔父が生まれたのが12月で、父親が読んだ俳句(川柳?)を親父がまだ覚えていたと言って、叔父は相当喜んでいた。
聞き伝えで正確ではないが、

サルの子が生まれて今日はクリスマス

……というような句だったそうだ。
干支が申だったのかと思って調べたら、昭和6(1931)年だとすると未年だ。僕よりちょうど2回り上。でも、もしかすると「12月で87歳」というのは数え年で言っていて、昭和7年なのかもしれない。
サルのような顔の赤ん坊が生まれた、という意味は当然込められているのだが、もしかしたら干支は関係なく、ただ単にそういう意味かもしれない。

父親(僕から見れば祖父)は鐸木巌といって、終戦の直前に栄養失調で亡くなっている。まだ40代だった。
鐸木三郎兵衛の三男で、若いときはハワイとサンフランシスコに留学している。サンフランシスコではプロテスタント系の神学校に通って神父の資格を取ったとかなんとか……。
西海岸をオープンカーに乗って走っている写真などを見せられたことがあるという。
帰国後に戦争になり、戦時中はアメリカ帰りということもあり、特高に目をつけられて家を見張られていたとも聞いた。
そんなことも関係して、闇市にも行かず、栄養失調で亡くなったらしい。

叔父は今回、親戚からもらった鐸木家の資料なるものを袋に入れて持ってきており「僕が持っていてもしょうがないので、これはよしみつ君に持っていてほしい」と言われた。
袋の中身は実に雑多で、福島県立美術館所蔵作品抄(収蔵品カタログ)とか、祖父・巌氏が残したらしい英文のノートとか、三郎兵衛が明治14(1881)年にまとめた「福島大火と道路開墾始末書」の書きおこし資料とか、大正9(1920)年の福島民報に載っていた鐸木三郎兵衛の紹介記事とか、家系図とか……。
昔のものを読み解くのは面白いが、本当に雑多だなあ……。


「福島県立美術館所蔵作品抄 1984」がなんであるのかと思ったら、曾祖父のさらに先代(9代)三郎兵衛(通称・西美)の肖像画が収められていた。高橋由一が描いたもの。高橋由一というと、美術の教科書に載っていた「鮭の絵」を思い出す。


高橋由一といえば↑これですかね



右は鐸木家の家系図記録(三郎兵衛がまとめたらしい)。左は巌が神学校留学時代に書いたと思われるノート



巌のノート。Arianism conception なんて書いてある。Arianismとは、アレクサンドリアの司祭、アリウス(250年頃 - 336年頃)とその追随者の集団であるアリウス派が主張したとされるが、アリウス本人はその主張に関わっていないという説もあったり……なんだか難しい話みたいだ。
とにかく、祖父・巌は太平洋戦争が起きる前にアメリカ本土でキリスト教史などを真面目に勉強していたことが分かる。
それも英語で……(あたりまえではあるが)。
生きていたらどんなに面白い人だったか、本当に惜しまれる。



三郎兵衛が明治14(1881)年に書いた「福島大火と道路開墾始末書」の書きおこし資料

漢字カタカナ交じりの文語体で非常に読みづらい。誰がいくら出したとかの話と、県令や議会と道路開設の必要性について議論した様子が記録されている。
三郎兵衛としては議会で何度も却下され、相当憤懣やるかたなく、細かく事実を記録しておいたのだろう。
伊達市の役所のどこかが記録としてワープロ打ちして内容を残したもののコピーらしい。歴史資料として貴重ではないかな。



大正9(1920)年3月12日付けの福島民報(多分)。7回続きの記事の一部。福島の大火がきっかけで道路改修に着手したことなどが書いてある。

町民の多くは高をくくり、ナニ道路などはと鼻であしらった結果、町会では2回までも道路改正案を否決してしまった。勝ち気であり、かつ当時油の乗りきっていた頃の氏(三郎兵衛)であるからたまらない。それでは拙者独力で道路改正の費用を出すからと計り、惜しげもなく7千円という金をずらっと放りだした。

↑この話は聞いていたが、大正時代の新聞記事が読めたのは面白かった。


このくだりもとても興味深い。
鬼県令、土木県令の異名を取る三島通庸が福島県令(今の県知事)のとき、安積疎水の開通式で中央政府から各大臣が来るというのに、福島は大火の直後で立派な旅館がない。なんとかしろと大騒ぎしたので、三郎兵衛は阿武隈川を見下ろせる旅館を建築した。それが松葉館(現在の杉妻会館)である、と。 その頃、自由民権運動が盛りあがっていて、三郎兵衛は河野広中らとの親交があったとして、突然投獄される。それがきっかけで、無罪放免となった後、一切の公職を降りて、後は茶道、俳句、禅などの風流三昧で隠居生活を決め込んだ……云々。

10代三郎兵衛(馬巌)と鬼県令三島の間には相当こじれた因縁?があったのは間違いない。
もう政治は嫌だと、すべての公職を辞任して廃寺に隠居した後も、周囲が何度も政界復帰を説得するけれど首を縦に振らなかった。
最後、根負けして応じるも「中央政界には一切関わりたくない。やるなら地元のために」と県議に復帰。その後、県の発展のためには……と、一度だけ政友会から衆議院議員に立候補して当選。でも、それ1期のみ。
こういう政治家、現代には見あたらない。
豪商の家に婿養子で入ったが、商売や金儲けにはとんと興味がない。この人には金や地位が邪魔だったのかもしれない。
そんな悩みは想像もつかないけどね。

ところで、10代三郎兵衛は養子入りする前は金谷正足といって、伊達町の芳賀甚七という人を師と仰いでいたらしい。その芳賀家の仲介で福島の三郎兵衛に養子になった。
正足(10代・三郎兵衛)と芳賀甚七は伊達の養蚕農家を盛り立てた宍戸義八郎という人と親交があり、宍戸家の子孫に俳優の宍戸錠がいる。
で、川内村時代にKAMUNAのコンサートをやらせていただいた蝉鳴寮(元・保育所)のオーナーが芳賀さん。川内村の我が家を買ってくださったのが宍戸さん。
どこかでつながっているのかしら。


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