2011/05/25の3

飯舘村に行ってきた(3)

7時半くらいから、第二部、加藤登紀子コンサート。
村長が挨拶。20年前にも一度、村でコンサートをやったそうで、そのときのことを振り返りながら村長「あの頃、加藤さんは若かった」と言って会場を笑わせていた。

カラオケも使っていた


おなじみ小さめのフォークギター

加藤さんも僕らと同じ気持ちらしくて、飯舘村の人たちに「千葉に来ないか」と誘っていた。
ほんと、この村の人たちの何人かでも川内村に来てくれないだろうかと思う。川内村にとっても、すごくいい刺激になると思う。

最後までいると帰るのが大変なので、途中で抜けてきた。
帰り道、牛小屋があったあたりにイルミネーションが光っていた。これも何かのメッセージだったのだろうか。
それとも、普段からやっていること(農業・酪農に関係する?)のひとつにすぎなかったのだろうか。

消えゆく村の最後の主張? 謎のイルミネーション


途中、また車を降りて線量計測。ほんとに高いなあ



川内村に帰ってきたときは夜10時近かった。

6月11日に、阿武隈再興に向けての決意表明集会をやろうという話があり、みんなそのことを話しているうちに解散ができなくなった。車の外でしばし立ち話。村には誰も残っていないので、夜中に大声を出しても迷惑にならない。
旅館小松屋の前の通りには、こんな横断幕もあった↑

テレビでは、仙台市内がすっかり復興したとか、○○地域が再興に向けて動き出し、ここまで来ているといったニュースがときどき流れてくる。
津波で根こそぎ流された町は本当に悲惨だが、飯舘村はまったく別の悲惨さだ。
美しい風景や人々の姿は何も変わっていない。それなのに村を捨てなければならない。復興もなにも、見た目には何一つ壊れているものも汚れているものもないのだ。
しかし、山道の脇に咲く美しい花をかがんで見て愛でるひとときはもうない。そこにいるだけで、線量計がけたたましく鳴り、異常な数値を表示する。
自慢の牧草を牛に食べさせることもできない。沢水で遊ぶこともできない。長い間かけて続けたオーガニック農業は根底から覆され、今後、自分が生きている時間レベルでは再開できない。
2か月かけて、村民たちはそのことを理解していった。どんな思いだっただろう。
同じ思いを川内村に住んでいた我々も味わっているが、我々はまだ、覚悟を決めてこの村に暮らし続けるという選択をできる程度の環境にある。
楽しく深呼吸はできないし、雨に濡れたり土をいじったりするときに無心になれないというストレスを抱えながらも、まだ暮らしている。飯舘村の人たちの多くは、もう戻れないと覚悟を決めているようだった。
必ず戻ってくるぞ、などというきれいごとは言えない。厳しすぎる現実を直視しながら村を去っていく。

川内村はどうなるのだろうか。
線量だけを見れば、この村に住めないなどと言ったら、福島市、伊達市、郡山市、いわき市といった都市部が全部住めない場所になってしまう。
しかし、現実問題として、学校は再開できないし、医療機関も閉鎖されたままなのだ。このままずるずると見捨てられた土地になっていくのかどうか……、とても難しい問題を突きつけられている。




一つ前の日記へ一つ前へ    abukuma.us HOME    takuki.com HOME      次の日記へ次の日記へ



あのとき、さまざまな偶然が重ならなかったら今頃日本は本当に「終わっていた」ということを、的確に分かりやすく解説。 ご案内ページは⇒こちら
A5判・40ページ オンデマンド 中綴じ版 580円/平綴じ版 690円(税別、送料別)
製本の仕方を選んでご注文↓(内容は同じです。中綴じ版はホチキス留め製本です)
製本形態

新マリアの父親
「フクシマ」を予言した小説と言われる『マリアの父親』の改訂版が「紙の本」で甦る。試し読みは⇒こちらから
A5判・124ページ オンデマンド 980円(税別、送料別) 





iBooks図書館ガイド  Kindleアプリで本を読む

tanupack音楽館  よいサイト 41.st  たくき よしみつの本 出版リストと購入先へのリンク  デジカメと写真撮影術のことならここへ! ガバサク道場