2011/02/09

京都西明寺にある「阿育王石柱」の謎(5)

 やはりルンビニの石柱がモデルだった

今日(2011年2月9日)、西明寺から送られてきた写真をようやく見ることができた。
柱に刻まれた銘を読むと、やはりこの石柱がルンビニーの石柱をモデルにしたものであることがはっきりした。

建立年「大正元年」と「彫刻布孝」の文字



ブラーフミー文字の碑文のデザインに合わせたかのような草書体の銘



「印度藍毘尼石柱」「??槇尾山模刻」 の文字が読み取れる



柱に刻まれたブラーフミー文字の碑文は……



↑やはりルンビニの石柱の碑文と完全に一致していた!

(左、西明寺ご住職提供。右、福島 毅さん提供)
上の写真画像、左側は西明寺の阿育王石塔、右はルンビニーのアショーカ王石柱の碑文。こうして並べてみると、完璧に一致していることが分かる。
ルンビニーの石柱に刻まれているのは「ブラーフミー文字」と呼ばれる古代文字で、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ法勅がもっとも有名な使用例。ルンビニーの石柱にもこの文字が刻まれていた。
内容は、何度も紹介してきたとおり、
「アショーカ王が王位について20周年。釈迦の生誕地であるこのルンビニ村を参拝し、馬の石柱を立てた。この村はお釈迦様の生誕地であるから、今後、租税を免じ、生産物の8分の1を納めればよいものとする」というもの。
おそらく、この5行の文章を、インドに渡った釈大真和尚、あるいは別の誰かが書き写すか拓本を取ったかして持ち帰ったのだろう。
また、その人物は同じインド旅行の中で、300km以上離れた(現在は車で6時間の道程)サルナートにも行って、4頭の獅子像が乗った別のアショーカ王石柱の柱頭部も見ていることになる。この柱頭部は柱とは分離した状態で発掘された。現在、柱頭部はサルナート博物館に保存・展示されているのだが、当時はどこにどのような形で保管されていたのだろうか。

おさらいしておこう。

稲村英隆和尚が西明寺の住職を継ぐ前、インドに渡ったのが明治26年。
ルンビニーの石柱が発掘されたのが明治28(1895)年。
サルナートの柱頭部が発掘されたのが明治37(1904)年。
稲村英隆が釈大真に西明寺住職を引き継いだのが明治38(1905)年10月。
西明寺に寅吉が彫った「阿育王石塔」が建立されたのがその7年後の大正元(1912)年。

ルンビニー石柱の文字を書き写し、サルナートの柱頭部(4頭の獅子像)を模写したのが釈大真だとすれば、明治37年か38年にインドを旅行していた可能性が高い。住職になった後にインドに渡ったとすれば、さらに7年、可能性のある時期が残る。
それにしてもである。写真技術や交通手段が未発達な明治時代末期、日本人僧侶がインドに渡って仏教聖地を巡り、アショーカ王石柱を克明に模写して持ち帰り、すぐに再現した(しかも存在していない柱頭部の動物像を想像して補って)とは、大変なことだったろう。
寅吉の子孫に伝わっている話では、この阿育王石塔は福貴作で粗彫りしたものを馬車で運び出して京都に送ったという。ということは、石も福貴作石なのだろう。また、粗彫り作業には和平も加わっていたかもしれない。
京都の石工に彫らせず、わざわざ福島から運ばせてまで寅吉にやらせたのだから、依頼者の寅吉への信頼は大変なものだったということだ。
その一大プロジェクトの仕上げを、東北の石工・小松寅吉は見事にやり遂げてからこの世を去ったのだ。
奥州の名工・小松寅吉最後の仕事として、これほどふさわしいものはない。





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