墓の形は好きだった将棋から将棋の駒の形。表には俳号である「馬巌(ばがん)」の名が刻まれている。
曾爺さん
鐸木三郎兵衛は、僕と同じで養子だった。養子という点で親近感を覚える。
もっとも、曾爺さんが養子になったときは大金持ちの家に跡取りとして迎えられたのだが、僕が鐸木家の人間になった(三郎兵衛の孫の養子になった)とき、鐸木家は貧しかった。
三郎兵衛曾爺さんのときは、福島駅前から自宅(福島県庁があるあたり)まで他人の土地を踏まずに行けたというのだが、その財産を三郎兵衛は自分の代で使い果たしてしまった。
そのため、代々続いた「三郎兵衛」の名前も曾爺さんが最後になった。
親父は三郎兵衛の三男・巌の長男で、三郎兵衛の孫にあたるのだが、親父の父親(鐸木巌)は、戦後まもなく栄養失調で死んだそうだ。
アメリカに留学して英語をマスターし、戦争中はアメリカのスパイではないかと特高に狙われ、一時は政府から通訳として誘いがあったりもしたらしいが、福島の英語教師として死んだ。戦後、家に食い物がないときに、闇市で食料を仕入れることを拒んだために栄養失調になったという話もあるが、どこまで正確な話かは分からない。
三郎兵衛は福島のために尽くした立派な政治家だったかもしれないが、子孫たちはみな「三郎兵衛さんがもう少し財産を残してくれていたら、俺たちもこんな貧乏暮らしはしていなかっただろうなあ」と、法事で集まるたびに言い合っている。
そもそも、鐸木家の子孫は福島市にはもうあまり残っていない。
三郎兵衛が隠居所として入手した廃寺は、今では孫娘とその長男が住んでいて、鐸木姓ではなくなっている。
鐸木姓を名乗っていた子孫はみんな県外に出てしまっていて、福島市内にただ一人残っていた鐸木姓の人間・鐸木明(めい=三男・巌の長女)が生涯独身のまま亡くなってからはひとりもいなくなった。
今では「鐸木」姓を刻んだ墓だけが福島市にあるわけだ。
「曾爺さんよ。あなたが『名誉市長』にされた福島市は、今、こんなことになっているのよ。あなたの墓も毎時0.7マイクロシーベルトはあるのよ。明治時代にはシーベルトなんていう単位もなかったけどさ……」
声をかけるにしても、なんか暗い内容にならざるをえない。
三郎兵衛曾爺さんの将棋の駒型の墓に花と線香を供えて、夕立が来る前に、急いで墓地の奥にあるうちの墓へ向かう。
信夫山墓地は広い。奥に進めば進むほど線量は高くなり、2台持っているガイガーカウンターはどちらも警告音鳴りっぱなしに。
水5リットル(そのうち1リットルはすでに三郎兵衛さんの墓で使ったので残りは4リットル)、長柄の鎌、レーキ、蚊取り線香と線香、花を持って、鐸木家の墓にようやく到着。墓地の最奥部にあるのよね。
この墓は
お袋が率先して建てた。
それまでは、確か、墓地の永代使用権だけはあったのだが、長い間、墓がないままで、三郎兵衛の三男・鐸木巌の骨は本家の隣りあたりに間借りするような形で埋められていたらしい。
そんなことでどうしますか! と、嫁に入ったお袋がばあさんを説き伏せて、陣頭指揮を執り?、石屋の選定、墓石選び、墓のデザイン、墓碑銘の書体などなど、全部お袋が決めて墓を作った。
その頃、お袋が読みあさっていた「墓相学」の本(2冊あった)を僕も読まされたのを覚えている。
猫足の墓はいけない、黒い墓はいけない、コンクリートの屍櫃(かろうと)はいけない、屍櫃の下は抜いて骨が土に還るようにしなければいけない、異形の墓はいけない、大きな木の根元に墓を建ててはいけない……などなど、いろんな「べからず」集みたいな本。
僕も読まされたので、完成したこの墓を見て「黒いじゃん」と言ったら、お袋は頑として認めず「いいえ! 黒ではありません。乳白色です」なんて強弁していた。
どこが乳白色なんだよ、これの。
たしか、白河の石だったのかな、これは。石屋に勧められたらしい。
猫足の墓にしてはいけないというのは、地震対策の意味もあったのかもしれない。3.11で墓石はずれたけれど、落ちなかった。シンプル イズ ベスト ということだろう。
墓の中が草ぼうぼうで大変なことになっているという事前情報をもらっていたのだが、大したことはなかった。墓が隠れるくらいに伸びているのかと思って鎌を持参したのだが、ドクダミなどが生えているだけ。
お袋はドクダミの白い花が好きだった。だから、花が咲く前なら刈らないのだが、せっかく鎌とレーキを持参したので、ちょこっとだけ草刈りしておくことにする。