鳥居を潜ると、いきなり狛犬が出迎える。おお~、ついにご対面。同じ「日光市在住」なのに、なかなか会いに来れなくて悪かったねえ。平素のご無沙汰を詫びつつ、さっそくパシャパシャパシャ。
秋元泰朝(やすとも)は、天正8(1580)に生まれて寛永19(1642)年に急死している。
父は秋元越中守長朝で、父子共に家康に仕えた。
豊臣氏滅亡後の残党狩りも行ったという。寛永10年(1633)に甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として1万8000石に封ぜられ、その後寛永13年に、日光東照宮の造営で総奉行を務めた。
この秋元泰朝が吽像の奉納者として名を刻まれているが、もしかすると金は松平正綱が多く出していたのかもしれない。
で、この狛犬は、狛犬史上非常に貴重なものなのだが、その理由としては、
- 平安時代に確立されたとされる「獅子狛犬」の様式をしっかり踏襲しながらも、それまでの神殿狛犬とは作風が違っている
- 走り毛や尾がほぼまっすぐ上に伸びている紐の束状である点などは、越前禿型狛犬の影響も若干見られる
- 名のある武家が初めて奉納したと考えられる狛犬である
- 関東以北における石造り国産参道狛犬としては最古と考えられる
……といったことがあげられる。
狛研理事の山田敏春さんは、完成時期は寛永18年10月から19年の4月と推定(1641~1642)している。
本来ならこの狛犬こそ、その後、一般大衆が地元の神社に大量に奉納し始める狛犬のモデルとなるべき存在だったはずだ。
ところが、この狛犬のデザインは完全に孤立していて、この狛犬のコピーらしき江戸時代の狛犬は見たことがない。
なぜか……。
それは奥の院、つまり家康の墓所の前に置かれた守護獣なので、一般大衆はおろか、武将でも相当地位の高い者でないと見ることができなかったからだ。
もしこの狛犬が一般参拝者も立ち入ることができた陽明門より外側に置かれていたら、江戸時代の狛犬の多くはこの奥の院狛犬を模して造られていたかもしれない。
そうはならず、ほとんど人目に触れない場所で孤独なまま現在まで墓所を守ってきたこの狛犬は、狛犬史の中でも孤立した存在だ。まさに「孤高の狛犬」と呼べるだろう。
この狛犬を見ることができた者が極めて限られていたと思わせる一例として、香川県東かがわ市の白鳥神社の狛犬を見ていただきたい。
白鳥神社は、高松藩主・松平頼重は東照宮が大改造営された寛永13(1636)年の2年後に将軍家に初見。寛永16(1639)年に常陸下館5万石。寛永19(1642)年に讃岐高松12万石として転封。寛文4(1664)年にこの白鳥神社を造営したとされているので、まさに東照宮大造営時代後に生きた人だ。
で、この狛犬は神社造営時、寛文4(1664)年に建立されたと推定されている。
後に形が固まってくる浪花型とも江戸獅子とも違う作風だが、東照宮奥の院の狛犬とも似ていない。
むしろ、「異形の狛犬」として知られる塩竃神社(宮城県)の狛犬に似た雰囲気だ。
頼重がもし東照宮奥の院の狛犬を見ていたなら、白鳥神社の狛犬を彫らせるときに、「東照宮の狛犬を手本にせよ」と命じるのが自然だろう。ところができあがった狛犬は東照宮の狛犬とはだいぶ違う。
水戸徳川家初代徳川頼房の長男の松平頼重でさえ東照宮奥の院の狛犬は見ていなかったのだろうか?
おそらく見ていないのだろうし、もし、奥の院参拝を許された機会があったとしても、緊張して狛犬のデザインなど目に入らなかっただろう。
ただし、東照宮の狛犬の存在は知っていたはずで、松平頼重が白鳥神社を造営し、狛犬を建立しようとしたときに、東照宮の狛犬のことが念頭にあったことは想像に難くない。
東照宮のように狛犬を奉納したいが、どんな狛犬なのか見たことがない……結果として、伝聞を頼りに石工に彫らせたのがこの狛犬なのではないだろうか。
東京都内で最古と言われる目黒不動尊の狛犬が承応3年(1654)
青森県弘前市にある弘前八幡宮、熊野奥照神社など3社にある越前禿型狛犬が寛文4(1664)年
(この年に白鳥神社造営)
塩竃神社(宮城県)の狛犬が延享4(1747)年
日光東照宮の狛犬は人の目に触れることがなかったが、この白鳥神社の狛犬は一般参拝客も石工たちも見ることができた。その結果、後の浪花型狛犬などに影響を与えたのではないかと考えられる。
いずれにしても、東照宮奥の院の狛犬が名品でありながら、後の狛犬史に影響を与えられなかったことはちょっと残念な気もする。