(承前)
その後、70号線に戻るのにはまっすぐ進めばいいはず……と狭い道を進んだが、二股を左に行かなければ行けないのを右に行ってしまったみたいで、道はどんどん細くなり、通れるのか? と心配になる。
農家の軒先をかすめてさらに細い道を突き進むとようやく70号線に出たが、正面に神社の鳥居が。
ん? 日枝神社は違うし……日吉神社? この道沿いの神社は全部見ているはずだが、どうも記憶にない。変だなあ。こんなところにあったっけ?
とりあえず車を停めて確かめてみる。
日吉神社も昔は「ひえじんじゃ」と読んだそうだ。
地元の郷土史家などは
「日吉山王大権現」とも呼んでいるようだ。

横は牛小屋で臭いがすごい。怪しいやつが来たという感じで牛が騒ぎ始めるも、無視して神社に突き進む。
入り口の狛犬は天保10年(1839)。前脚部分がかなり痛んでいる。記憶にあるようなないような……あまりインパクトはないので忘れてしまっているだけかもしれない。前に訪れていることは間違いない。嫌だねえ。ほんとに記憶が飛んでいて。
さらに社殿へと向かい、念のために裏を見ると……。
あたりまえのようにもう一対、すごいのがいた。
これは記憶にない。見ていたら忘れないはずだから、前に来たときには見過ごしていたのだろう。
ぐーぐーさんの
「狛犬探検隊」にも、入り口の狛犬しか載っていないので、彼女も見落としているのだろう。
幸い、格子の間隔が比較的広いので、きれいに写真が撮れた。
本日は大収穫だった。
何度も通っている70号線沿いの神社なのに、なぜ今までこれに気づかなかったのか不思議だ。
目立たないわけでもないのに目に入らなかったとは……道がまっすぐで交通量もないため、ちょうど通り過ぎやすい場所なのかもしれない。
いろいろ調べていくと、狛犬の台座などにも刻まれている「北条○○」は、後北条氏(北条早雲を祖とする戦国大名)の系譜らしい。
池田正夫さんというかたのブログにこんな記述を見つけた。
古賀志山の南山麓に「石山」と呼ぶ石切り場跡がある。石質は凝灰岩質角礫岩である。その採掘の歴史は古く、正徳元年(1711)にまで溯る。信州の石工木下忠右衛門が石工を連れて古賀志村に遣ってきた。古賀志村の名主北條甚左衛門義治宅に滞留して、山麓の黒石山に石細工に適した石質の露岩があることを確認し、石を切り出したのがその始まりである。
最初の切出し石は、北條三郎左衛門宅の家柱となった。現存する最古の古賀志石の石造物は、正徳四年(1714)の日吉山王大権現の石鳥居である。
江戸時代の古賀志村民の墓石は、すべて古賀志石を加工したものである。
甚左衛門義治の思惑と石工忠右衛門の意図が一致したのである。それ以来、古賀志村のみでなく近隣の村々の墓石、石造物は、この古賀志石の需要が飛躍的に増えたのである。
ここに出てくる「信州の石工木下忠右衛門」を調べると、やはり高遠石工らしい。
⇒ここに「中沢村(今の駒ヶ根市中沢)の木下忠右衛門」が高遠藩主に願い出て水路を造る話が出ている。
伊那市の「高遠石工作品表」にも、「山梨県韮崎市穂坂町三之蔵の馬頭観音碑-明和4年(1767)9月 高遠 忠右衛門」というのが出ている。
同じ人物ではないとしても、高遠石工に「忠右衛門」の名を継ぐ石工の系譜があったのは間違いないだろう。
さて、ここの狛犬に話を戻せば、寄進年1802年は明治維新(1868)の66年前だからそんなに古いわけではない。でも、これだけ完全な姿で江戸時代の狛犬が一対残っているのは珍しいかもしれない。
形としても、江戸タイプではないし、かといって畿内タイプとも言えない。石工は何を手本にしてこの狛犬を彫ったのか興味深い。
阿像吽像が同じ形で、角・宝珠という分け方もしていない。でも、阿吽形式はしっかり守っていて、奉納者は「獅子」ではなく「狛狗」と認識していたことが分かる。
おそらく外の狛犬(江戸タイプ)とは別の石工の作だろう。もしかすると奥の狛犬を彫ったのは高遠石工かもしれない。高遠石工が彫る狛犬は既存タイプのコピーではなく、石工が自由なデザインをしていることが多い。
他にも、江戸後期に日光では「こまいぬ」について、左右が違う生き物(獅子と狛犬)という認識はしておらず、名称は「こまいぬ」だった。江戸タイプのように獅子を意識したものとも少し違っていたようだ……ということが想像できる、貴重な資料と言えそうだ。