のぼみ~日記 2015

2015/08/19 の2

日吉神社(宇都宮市古賀志)の狛犬


(承前)
その後、70号線に戻るのにはまっすぐ進めばいいはず……と狭い道を進んだが、二股を左に行かなければ行けないのを右に行ってしまったみたいで、道はどんどん細くなり、通れるのか? と心配になる。
農家の軒先をかすめてさらに細い道を突き進むとようやく70号線に出たが、正面に神社の鳥居が。
ん? 日枝神社は違うし……日吉神社? この道沿いの神社は全部見ているはずだが、どうも記憶にない。変だなあ。こんなところにあったっけ?
とりあえず車を停めて確かめてみる。



日吉神社も昔は「ひえじんじゃ」と読んだそうだ。
地元の郷土史家などは「日吉山王大権現」とも呼んでいるようだ。

横は牛小屋で臭いがすごい。怪しいやつが来たという感じで牛が騒ぎ始めるも、無視して神社に突き進む。

入り口の狛犬は天保10年(1839)。前脚部分がかなり痛んでいる。記憶にあるようなないような……あまりインパクトはないので忘れてしまっているだけかもしれない。前に訪れていることは間違いない。嫌だねえ。ほんとに記憶が飛んでいて。

さらに社殿へと向かい、念のために裏を見ると……。
あたりまえのようにもう一対、すごいのがいた。
これは記憶にない。見ていたら忘れないはずだから、前に来たときには見過ごしていたのだろう。
ぐーぐーさんの「狛犬探検隊」にも、入り口の狛犬しか載っていないので、彼女も見落としているのだろう。
幸い、格子の間隔が比較的広いので、きれいに写真が撮れた。


石段の両脇にいる天保年間の狛犬


吽像。頭のは宝珠か角か?


阿像。こちらのほうが頭の上の突起が小さいので、こっちが宝珠のつもりかもしれない


今のうちにこれ以上剥離が進まないようきれいに処置したいところだが……


天保10年(1839)10月 願主・北条二郎左右衛門 祭主・大?? 石工・北条新右衛門 かなりの情報量


吽像の顔


阿像の顔


分類するなら江戸タイプに入る


前脚に彫られた模様がていねい


そばには安永年間の灯籠


安永元年は1772年。狛犬より60年以上古い


これは天保7(1836)年11月。狛犬の少し前の奉納


で、今回の収穫がこれ。奥にあった江戸時代の狛犬


表面がきれいなので、最初は木像かと思った


阿像吽像はほぼ同じデザイン


巻き毛の表現に力が入っているのが特徴か


北条文吾伯寿? 北条家はこのあたりの盟主で、戦国大名・後北条家の系譜らしい


尾は阿像吽像ともに先がスパッと切れている。欠けたのではなく最初からこうなのだろう


享和2(1802年)年4月3日 213歳の狛犬。表の狛犬より37年先輩


ずっと屋内に置かれていたのだろう。傷みがほとんどない


狛狗一對 とあるので、これを獅子ではなく「こまいぬ」と呼んでいたことが分かる


吽像の顔。口を閉じているが犬歯を表現しているところがにくい


前脚ががっしりしていてバランスもよい


阿像はニコニコしているように見えて可愛い


口の中の舌がでかいね。これもカエルっぽくて可愛く見せている要因か


一対きれいに残っているのは貴重


背中側


やはりどの角度から見ても顔以外はほぼ同じデザイン


社の木彫もなかなかのもの


鹿沼の彫刻屋台なども手がけている彫り師の作品だろう


奉納者の北條家がそうとう財力のある有力者だったことがうかがえる


社殿の裏手


社額は二荒山神社の宮司が書いたもの?


古いものを見た後だと、車の凹みなんてどうということないって思える
本日は大収穫だった。
何度も通っている70号線沿いの神社なのに、なぜ今までこれに気づかなかったのか不思議だ。
目立たないわけでもないのに目に入らなかったとは……道がまっすぐで交通量もないため、ちょうど通り過ぎやすい場所なのかもしれない。
いろいろ調べていくと、狛犬の台座などにも刻まれている「北条○○」は、後北条氏(北条早雲を祖とする戦国大名)の系譜らしい。
池田正夫さんというかたのブログにこんな記述を見つけた。
古賀志山の南山麓に「石山」と呼ぶ石切り場跡がある。石質は凝灰岩質角礫岩である。その採掘の歴史は古く、正徳元年(1711)にまで溯る。信州の石工木下忠右衛門が石工を連れて古賀志村に遣ってきた。古賀志村の名主北條甚左衛門義治宅に滞留して、山麓の黒石山に石細工に適した石質の露岩があることを確認し、石を切り出したのがその始まりである。

最初の切出し石は、北條三郎左衛門宅の家柱となった。現存する最古の古賀志石の石造物は、正徳四年(1714)の日吉山王大権現の石鳥居である。
江戸時代の古賀志村民の墓石は、すべて古賀志石を加工したものである。

甚左衛門義治の思惑と石工忠右衛門の意図が一致したのである。それ以来、古賀志村のみでなく近隣の村々の墓石、石造物は、この古賀志石の需要が飛躍的に増えたのである。

ここに出てくる「信州の石工木下忠右衛門」を調べると、やはり高遠石工らしい。
⇒ここに「中沢村(今の駒ヶ根市中沢)の木下忠右衛門」が高遠藩主に願い出て水路を造る話が出ている。
伊那市の「高遠石工作品表」にも、「山梨県韮崎市穂坂町三之蔵の馬頭観音碑-明和4年(1767)9月 高遠 忠右衛門」というのが出ている。
同じ人物ではないとしても、高遠石工に「忠右衛門」の名を継ぐ石工の系譜があったのは間違いないだろう。

さて、ここの狛犬に話を戻せば、寄進年1802年は明治維新(1868)の66年前だからそんなに古いわけではない。でも、これだけ完全な姿で江戸時代の狛犬が一対残っているのは珍しいかもしれない。
形としても、江戸タイプではないし、かといって畿内タイプとも言えない。石工は何を手本にしてこの狛犬を彫ったのか興味深い。
阿像吽像が同じ形で、角・宝珠という分け方もしていない。でも、阿吽形式はしっかり守っていて、奉納者は「獅子」ではなく「狛狗」と認識していたことが分かる。
おそらく外の狛犬(江戸タイプ)とは別の石工の作だろう。もしかすると奥の狛犬を彫ったのは高遠石工かもしれない。高遠石工が彫る狛犬は既存タイプのコピーではなく、石工が自由なデザインをしていることが多い。
他にも、江戸後期に日光では「こまいぬ」について、左右が違う生き物(獅子と狛犬)という認識はしておらず、名称は「こまいぬ」だった。江戸タイプのように獅子を意識したものとも少し違っていたようだ……ということが想像できる、貴重な資料と言えそうだ。








更新が分かるように、最新更新情報をこちらの更新記録ページに極力置くようにしました●⇒最新更新情報



一つ前の日記へ一つ前へ |     Kindle Booksbooks      たくきの音楽(MP3)music      目次へ目次      takuki.com homeHOME           | 次の日記へ次の日記へ



tanupack音楽館  よいサイト 41.st  たくき よしみつの本 出版リストと購入先へのリンク  デジカメと写真撮影術のことならここへ! ガバサク道場


「福島問題」の本質とは何か?


『3.11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』(岩波ジュニア新書 240ページ)
『裸のフクシマ』以後、さらに混迷を深めていった福島から、若い世代へ向けての渾身の伝言。
複数の中学校・高校が入試問題(国語長文読解)に採用。大人にこそ読んでほしい!

第1章 あの日何が起きたのか
第2章 日本は放射能汚染国家になった
第3章 壊されたコミュニティ
第4章 原子力の正体
第5章 放射能より怖いもの
第6章 エネルギー問題の嘘と真実
第7章 3・11後の日本を生きる

今すぐご注文できます 
アマゾンコムで注文で買う
⇒立ち読み版はこちら
裸のフクシマ  『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』(講談社 単行本352ページ)
ニュースでは語られないフクシマの真実を、原発25kmの自宅からの目で収集・発信。驚愕の事実、メディアが語ろうとしない現実的提言が満載。

第1章 「いちエフ」では実際に何が起きていたのか?
第2章 国も住民も認めたくない放射能汚染の現実
第3章 「フクシマ丸裸作戦」が始まった
第4章 「奇跡の村」川内村の人間模様
第5章 裸のフクシマ
かなり長いあとがき 『マリアの父親』と鐸木三郎兵衛

今すぐご注文できます 
アマゾンコムで注文で買う
⇒立ち読み版はこちら



Google
abukuma.us を検索 tanupack.com を検索