ネットを通じて知った犬猫の里親捜しをしているボランティア団体は横浜を拠点にしているグループだった。
19日に引き取りに来ると決まってからは、助手さんが不機嫌になって大変だった。
拾ってきたときは「どうするつもりなの?」「一生面倒みるつもりなの?」って言ってたくせに、ここ数日ですっかりのぼみ~の可愛さにめろめろになっている。
しかし、今は自分たちの生活も明日どうなるか分からないし、乳離れしていない子ネコ二匹を飼うなんて無理だ。ただでさえ外にはしんちゃん一家がいるし、シロもいるし。
そのへんの詳しい状況は
当時リアルタイムで書いた日記を読んだほうが正確に伝わると思う
⇒こちら。
とにかくのぼみ~はボランティアさんに引き取られて横浜へと向かった。
辛い別れ。
のぼみ~が連れられていく間にも、しんちゃん一家は庭にずっといた↑ ボランティアのみほさんが「立派な母親ぶりですね」と感心していた。
この子たちは人間がちょっとでも動くとサッと林の中に逃げ込んでしまうから捕まえられないのだが、今思えば、罠でもなんでも使って捕まえて、ボランティアさんにはしんちゃんのこどもたちを引き取ってもらえばよかった。
でも、やはり無理だったな。子ネコたちの逃げ足の速さと言ったらしんちゃん以上だったし。
そもそも原発爆発に関係なく、村には常に野良猫はいて、次から次へと子猫は生まれるのだ。
あまり書きたくないことだが、村の人たちの多くは、飼っている犬猫に対しては極めてドライだ。
飼い犬飼い猫に避妊手術をしない。子犬・子ネコが生まれたら目が開かないうちにビニール袋に生きたまま入れて川に投げ込んでしまう。
それがあたりまえのこととして通用していた。
実は鎖から放たれ、ボランティアに捕まって埼玉県まで連れて行かれる前に、ジョンは近所の雌犬を妊ませていて、その雌犬はジョンの子犬を何頭か生んだのだが、雌犬の飼い主はすぐに川に流してしまったと後から聞いた。
「え? ほしかった?」と言われたが、答えられなかった。
飼える状況ではないが、生まれてしまった以上、まずは里親捜しだろうと普通なら考える。でも、村の人たちはそうは思わない。
普段、散歩の途中で挨拶を交わし、大根を持っていけ、ありがとう……とやりとりしているご近所さんたちみんながそういう感覚なのだ。
子供のときからそう教えられ、何も疑問を抱いていないようだから、今さら考え方を変えさせるのは難しい。
犬もつなぎっぱなしで全然散歩させてもらえていない犬がいっぱいいた。
少し離れたところにつながれたまま残された犬がいて、たまたまその家の人(村役場の職員)と散歩の途中で会ったので、避難中、散歩させていいかと訊いたら「そりゃだめでしょ」と即答で拒否された。
向かいの家に餌をあげてくれと頼んであるから、余計なことはするなということだった。
もともとその家の人たちは僕の存在をよく思っていないらしかった。散歩の途中で挨拶してもそっぽを向いていたし、ジョンと散歩しているときにも「ここはうちの土地だから歩かれては困る」と言われたこともある。
そういう人たちがいることは前から分かっていたので、事を荒立てるようなことはできなかった。
しかし、つながれっぱなしの犬はやはり可愛そうで、なんとかしてやりたかった。
その犬は3.11前にも、畑を荒らすイノシシを追い払うためということで、家から離れた山の麓に一晩中つなぎっぱなしにされていたことがある。
田舎で暮らす犬には、そんな風に飼われている犬も多いのだ。
具合が悪いことに、犬を放しておくとボランティア団体が「さらって」いってしまうという話が広まってからは、避難している家でもみんな犬を鎖につなぐようになった。おかげで犬たちは散歩できず、自分で餌を探すこともできず、可愛そうなことになっていた。
村の職員に犬の散歩申し出を拒否された後、さらに離れたところに何頭か残されている犬がいると聞いて、2km以上離れたところまで行ってみた。
そこでは、ほとんど家に戻ってきている家のおばさんが、毎日、自分の家で飼っていた二頭の犬の他に、近所の犬一頭も散歩させていることが分かった。
自分の家の犬二頭は仲が悪くて、一緒には散歩させられないので、別々にさせるから、近所の犬と合わせて合計3回散歩させなければならないという。
「じゃあ、その近所の犬一頭というのは僕が担当しましょう」と申し出て、その日から毎日、ジョンの代わりにチャッピーという雌犬と散歩することになった。
チャッピーは飼い主が郡山に避難してからはつながれっぱなしで、人間に対してかなり警戒心を抱くようになっているとのことだったが、僕とはすぐに仲よくなった。
遠いので、自転車でその家まで行き、散歩をして、帰ってきてからご飯をあげて、水を替えて……ということを毎日していた。
のぼみ~を引き取ることに
のぼみ~をボランティアさんに預けてからは、助手さんは終始無言で暗かった。
そんなに飼いたかったのならはっきりそう言えばいいのにと言うと、
「だって、私だけが飼うと主張したら、連れ子みたいになってしまうから」と、わけ分からないことを言われた。
そんなとき、僕の小説の数少ないファンであり、その頃、土壌や水の放射性物質汚染調査を個人レベルでこっそり手伝ってもらっていた大阪市大の水谷准教授(専門は廃棄物管理工学)が、mixiのメッセージでこう書いてきた。
title:水の分析と子猫
日付:2011年06月20日 01時27分
(略)
水分析の結果は、4つ目もNDでした。(略)
子猫の話、しばらく傍観していました。
大きなお世話かもしれませんが、奥さんが乗り気なら福島に住み続ける上でも、今から自ら里親にという選択肢もあるのでは? まだ間に合うのではと思いますが。
事情を知らない勝手な意見なんで、お返事は不要です。不愉快にさせたら御免なさい。
読んだのは夜中。
水谷さんの仲介で、川内村に戻ってきている友人たちの分も含めて飲料水(井戸水、沢水)の分析を依頼していた。どのサンプルからも放射性物質は検出されなかったのでほっとしたが、そのことよりも、最後の部分が心に響いた。「まだ間に合うのでは」という部分を反芻しながら眠りについた。
3.11の夜、何度もやってくる余震の中でも眠れたのに、この夜はよく眠れず、早朝、助手さんが起きているのを確認して、寝床の中から声をかけた。
「やっぱりうちで飼うか?」
それを聞くなり、パッと助手さんの顔が明るくなったのは今でも忘れられない。
上智での非常勤講師授業とKAMUNAコンサートatソフィアホールの日にちが迫っていて、講談社から『裸のフクシマ』を出すことも決まって毎日原稿を書いていて、でも、このまま川内村にい続けられるのかどうか分からない……という、とても大変な日々だった。
6月24日、一度は里親捜しボランティアさんに預けた
のぼみ~を引き取りに横浜のボランティアさん宅へ。
そこにはのぼみ~の他にも、飯舘村から救出された犬とか、いろいろいた。
僕らの生活がまだまだ安定していない中で子ネコ二匹を引き取ったので、しばらくは大変だった。
上智の授業とコンサートが終わるまでは川内村に帰れないので、まずは川崎の仕事場に。
そこで落ち着く間もなく、逗子の助手さんの実家に。
都内での仕事が一段落するまでは逗子の実家に預かってもらっていた。
7月6日に上智コンサートが終わり、翌7日にもろもろの雑用を済ませて、8日深夜に川内村に戻った。
小さなのぼみ~にとっては、川内村~横浜~川崎~逗子~川内村……と、何度もの長旅はきつかっただろう。
7月9日からは、また川内村でのぼみ~が家にいて、シロがときどき出入りして、外にはしんちゃん一家が毎日顔を出すという生活に戻ったのだった。