満61歳になった。
60歳は還暦ということで、なんとなく嬉しい?気持ちもあったのだが、そこから先もまだ1つ1つ歳を取る、しかも超速で時間が過ぎていくと思うと、ここからは死との闘いになるのか?
感性が鈍り、肉体が衰えていくのは、死を楽に迎えるために必要なことだと思う。若いときの体力や気持ちのまま死を迎えるのは残酷だ。そうならないだけ生きたことに感謝したい。
それにしても、階段の上り下りで躓いたり、指先の感覚が鈍ってものを落としたり、さっきまで覚えていたことを忘れて思い出せないたびに、あ~あ、と心の中でため息をつく日々。
デジタルワビサビの精神は変わらないが、最近はアナログへの回帰が少しずつ強まっている。
原稿を紙に書くことはもう一生ないだろうが、紙に墨や絵の具で絵を描くことは始めるかもしれない。アクリル絵の具はアマゾンで買ったまままだ手をつけていないけれど、近々なんとか使ってみたい……。和室のしょーもない襖に白い紙を貼って絵でも描こうかな、なんて考えたりしている。
Kindleブックにしてもどうせ売れないものは売れないのだから、じゃあ、本当にほしいと思ってくれるごく少数の人に向けて「紙の本」を作ってみよう、と始めたオンデマンド出版。これは多分、たらたらと続けていくと思う。
今年になってからほとんど楽器に触っていないので、これはなんとかしないと。
昨夜、初めて(多分)EWIの夢を見た。指が接着剤がついたように動かなくて、裏の移調スイッチをいくら押してもAbが出せなくて……というような夢。ギターや歌絡みの「うまくいかない」夢は山のように見るのだが、EWIのは初めて(多分)。
ああ~、こんな気持ちのまま死ねないなあ……ということで、心を入れ替えないと。でも、デジタル楽器はやはりストレスが伴う。お手軽だけれど、その分、脳が蝕まれている部分がどうしてもあるみたいだ。
こんな生活をあとどれだけ続けられるのか……どう考えても数年で破綻することは分かっているけれど、その数年が人生でいちばん充実し、幸せな時間だったと思えるように、のらりくらりとまいりましょうぞ。
今年からのスローガンは「人生、死んでからが勝負」。
またいつものように後ろ向きだなあ、と思わないでね。こんな時代を前向きに生きるにはどうすればいいのか、衰える一方の肉体と精神に逆らわず、しかも今まで以上に充実して残りの人生を生きるにはどうすればいいのかを考えた末の結論なのだ。
時代がどんどんおかしくなることはどうしようもない。個人の力、努力では抗えない。それを認めた上でどう生きるか、だ……。
昔、
動物生態学者の中村方子(まさこ)さんの父親が、死ぬ前に娘に語った言葉の中に、そういう意味のことがあったそうだ。
今まさにそういう時代なのだと思う。
もはや、自分が生きているあと少しの時間では、世の中がよくなっていくのは見られないだろうし、自分のやっていることが社会的に評価されることも望めない。それを認めた上で、自暴自棄になるのではなく、では、死んだ後に何を残せるのかを考え、残すべきもの、残すに値するものを作る人生を送っていこう……と決めたのだ。
「新唱歌」も「狛犬図鑑」も「デジタルワビサビ」も、そうした考え方でやっている。
自分が死んだ後100年くらい経って、そのとき、まだ世界に人類がまともな文化・文明を維持できていたら、今よりも健全な文化・文明かもしれない。そのときに、もし僕の作ったメロディや書いた文章が残っていたら、そのときが勝負だ……と。
生きている間はもう仕方がない、と腹をくくると、毎日が少し楽になる。
これは毎日を楽に生きるということとは少し違う。だって、100年後に見つけてもらうためには、ものすごく内容のある、評価されるに値する作品を作らなければいけないのだから。
今の時代に売れる、ヒットする、当たる……ことも難しいが、それは運の要素や押しの強さという意味での難しさだ。本当に価値の高いものを残すことは「本質的に」難しい。その難しさを直視しよう、楽しもうというのだから、こんな前向きな生き方はない。
……というような心境を、61歳になった今、ゆっくりと噛みしめているところなのであります。
利平は生涯追われる身で、自分の作品に名前も彫れなかった。彼もまた、「人生、死んだ後が勝負」という生き方をすべく、血のつながっていない寅吉をみっちり仕込み、その実力を認めてからは養子に迎え、自分の死後に思いをはせた。
宮沢賢治も、生きている間は「世間」に自分の作品を見つけてもらえなかった。
死んだ後のことは自分ではもう分からない。認知できない。死んでしまっているのだから……。
それを哀しいと思うのではなく、救いだ、と思えるようになれば、毎日がもっと楽しくなるのかもしれない。