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のぼみ~日記2017たくき よしみつの日記2017


2017/10/27

「介護」というお仕事


親父の短い散歩を見守ってホームに戻ると、代表のNさんが来ていた。多分、これから夜勤なのだろう。
今日訪ねたのは、来年早々に出版される予定の本(新書)に使いたい写真の掲載許可をもらうのと、このホームのことを書いた部分をチェックしてもらうためだった。
実は昨日も来たのだが、玄関前に「ドライブに行っています」というメモが1枚置かれていて、入所者、スタッフ全員が東照宮や霧降高原方面へ紅葉狩りドライブに行っていて留守だった。改めてすごいホームだなと感心して帰ったのだった。

Nさんはすでに原稿を読み終わっていて、とても喜んでくれた。で、昔作っていた通信紙と本があるといって持ち出してきてくれた。
この施設がまだ今市の街中にあったときのもので、「通信」は1号から5号まで。1号は2005年6月、5号は2006年12月発行と記されていた。
3号(2006年7月)までが「今市市」、4号から「日光市」になっている。
宅老所から始まった小さな介護ホームが、その頃にはデイホームとグループホームを合わせ持つ施設になっていて、Nさんがスーパーウーマン的な働きをしていたことが分かった。
その後、さすがのNさんも、頑張りすぎて心身ともにつぶれそうになり、規模を当初の頃のような小さなものに戻そうと移転を決意した直後に3.11が起きて、そのあたりがいちばん辛かったと話してくれた。
燃え尽き症候群のようになって、しばらくは鬱状態になっていたという。

これらの通信や自主制作本をまとめていたのは鈴木和子さんというかたで、どちらもとてもよくできていて、感心してしまった。特に驚いたのはA4の2枚両面印刷8ページの「通信」。利用者の家族に鈴木さんがインタビューした内容がまとめられているのだが、その内容がすごい。
1号では、79歳の頃からアルツハイマーになった父親の介護で生活が壊れかけていた娘のKさんの話が紹介されている。
Kさんの父親は、当初は別の施設でデイサービスを受けていたが、仕事を持っているKさんが迎えに行く時間が遅くなると、なぜ施設に入れないのか、甘えていないか、などと嫌みを言われたとか。
Nさんと知り合って、Nさんのホームに連れて行くようになってからは父親もKさんもずっと楽になった。
しかし、あるとき父親が高熱を出し、自ら「入院させてくれ」と言ったことがきっかけで生活が一変。家にいたときは1人でトイレに行き、食事もしていたのに、入院後は24時間ベッドに縛り付けられ、オムツと点滴と睡眠剤漬けの日々。父親はどんどんひどくなり、「ここを出たい」と訴える。
こんなはずではなかったと後悔してもどうにもならず、困り果てていたとき、それを聞いたNさんから言われた「とりあえず退院しようよ。うちにおいでよ」という言葉で救われたと。
そのときはまだグループホームが併設されていなかったのに、Nさんは「無期限ショートステイ」という裏技でKさんの父親を受け入れた。
病院からは「どうなっても知らない」と言われたが、ホームに連れて行った翌日には元気になり、「ヨッ!」と手を上げて笑顔でKさんを迎えてくれたとのこと。
それから半年間、Kさんの父親は二度と病院にはかからず、自分でトイレに行き、自分で食事をし、散歩をして、テレビを見て、疲れたら好きなときに横になるという「普通の生活」を続けられた後に亡くなった。

……これはなかなかできることではない。
普通は逆なのだ。施設に入所している人の具合が悪くなると、施設の側から「うちでは医療的な対応ができないから」と病院に送り込まれる。
病院に入ったら、たちまちありとあらゆる高額な検査を受け、ベッドに縛り付けられ、人間的な生活からはどんどん遠ざかり、気持ちも落ち込んだまま苦しい時間を過ごす。それも90日までが限度で、どんどん容体が悪くなっているのに、90日が迫ると「別の病院を探してください」と追い出されてしまう。
治療してよくなる病気で入院するのならいいのだが、年老いて、身体がもう弱り切っている状態で入院させられても、幸せには死ねない。

Nさんがすごいのは、Kさんの父親が入院してからも、どうやったら病院から戻ってこさせられるか、その後、どのように対処したらQOLを復活させられるかを必死に考えていたという点だ。
点滴ではなく、自分の手で自分の口から食べられるようにと、プリンや卵豆腐、ゼリーなどを用意し、Kさんの父親に好きなものを選んでもらう。
あなたは病気だから普通の食事はできません。なので、栄養を点滴します……と強制するのではなく、自分の意思で、自分が食べたいものを選べるような環境を作る。
寝る前には口をすすいだり歯磨きをしてもらい、喉周辺にばい菌が繁殖しないように心がけたり、夜も、寝汗をかくので何度も着替えさせ、身体を拭き、トイレには、スタッフが支えながらも、自力で歩いていけるようにする。
寝たまま食べさせず、起きた姿勢で食べてもらう。
会話を増やして、自分が今何をしているか、何をされているのか、それはどういう意味があるのかを常に意識させる。
……これはもう、仕事を持っている家族では到底できない。

ただ単に、こういう人にはこういう処置をするというマニュアル通りに接している介護施設や病院では、一人一人の心の中や個性、体質の違いまではなかなか見てもらえないし、分かっていても対応できないことがほとんどだろう。

Nさんはこの後、グループホームも併設して、バリバリ働く。寝たきりや車椅子の人も含めて、ホームの入所者全員で年に一度「冥土の土産ツアー」と銘打った旅行もする。東京まで行って、帝国ホテルで食事をして、六本木でニューハーフショーを見物なんていうこともやっていたようだ。
家族には「途中で死んじゃうかもしれないですけど、いいですか?」と確認を取ってから出かけたという。
ものすごいエネルギーと勇気だ。

でも、介護保険制度が始まり、いろいろな規制やら何やらの壁、経営の困難さで、自分がヘトヘトになってしまった。
グループホームを畳んで、以前のような小さな家一軒でやれる規模に戻して、今に至っている。
行政からはグループホームに移行しないかと言われているそうだが、「夜間の介護はスタッフ一人に対して2、3人が限界。それ以上の規模にすると自分たちがつぶれてしまうから、これ以上の規模にはしない」と明言している。

こんなホームにお世話になっている親父は、どれだけ幸運なことか。

助手さんが「私の番がきたら、ぜひここにお願いします」と言ったら、Nさんすかさず「無理、無理」と答えた。
その頃には介護保険制度も含めてこの国の福祉制度が壊れ、経済的にも破綻していることを、現場にいる人たちはみんな知っている。自分たちの番はない、と分かった上で、今、目の前の老人たちが幸せに死ねるようにと、自分たちの命を削りながら頑張っている。とてもできることではない。

僕自身、自分の番のときはとてもこんな風にはいかないと分かっているので、限られた条件の中でいかに幸せに生ききり、死ねるか、その方法を真剣に考え続けている。

そんなこんなを書いた本が、1月に出る。
事故なく、無事に出てくれるといいのだが。


今度の本を書くにあたって、たくさんの本を読んだが、その中の2冊。どちらも日本では絶版になっている


「ウサギが原」のその後


レオのボケも進んでいて、歩きながらウンチしたり、同じところをぐるぐる回ってみたり、散歩も大変。
今日はさっさと自分から引き上げてしまったので、運動量が物足りない僕は、久々に涼風号MarkIIで走ってみた。
ノウサギを見た原っぱが重機で整地された後、どうなったのか……見に行くと、そのままで、また草が生え、枯れていた↑。このままならいいのだが、やはり何か建てるのだろうな。
ソーラーパネルを敷き詰めるつもりでここまでやったが、買い取り価格が下げられると聞いてやめたのか? もしそうなら、賢明な判断だ。

ちなみに、あのノウサギは、原っぱが消えた後、前の道で車に轢かれて死んでいたそうだ。水たまりも埋められてしまったので、ウサギだけでなく、カエルやヤゴなどもみんな棲めなくなった。

住宅分譲地の中を走る。こんな光景はこのへんでは珍しくない




30年くらい前の作品












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