
連休明けの朝7時。浅草寺境内にいるのは近所の人たちが多いのだろうか

本堂の屋根に、こんなんいたんやねえ↑↓ Stylus1の望遠端で撮ったものをトリミング


↑これはα6000+50mm/F1.8の単焦点レンズF5.6に絞って撮ったものを切り取って補整。Stylus1の望遠端は300mm相当だけど、実際は64mm。APS-Cサイズのα6000で50mmをつけると75mm相当。いい勝負?

↑吽側 ↓阿側 ほんとならFZ1000で撮ればいちばんいいんだけど、今日は狛犬撮影が目的ではないので持ってきてない。撮影にはちょうどいい天候だったけどねえ


阿像のほうが逆光が強くて厳しかった

鬼瓦。現代風
ちなみに現在の浅草寺は、参道入り口側から建物の建設年を調べると、
- 雷門:慶応元(1865)年焼失。昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートで再建
- 仲見世:関東大震災で被災。大正14(1925年)年に鉄筋コンクリートで再建
- 五重塔:焼失・再建を繰り返した後、慶安元(1648)年に再建されたものが東京大空襲で焼失。昭和48(1973)年に鉄筋コンクリートで再建
- 宝蔵門:昭和39(1964)年に鉄筋コンクリートで再建。平成19(2007)年に屋根改修工事
- 本堂:慶安2(1649)年再建のものは国宝指定だったが、東京大空襲で焼失。昭和33(1958)年に鉄筋コンクリートで再建
- 二天門:元和4(1618)年の建築で、大空襲でも焼け残った貴重な文化財。国の重文指定。平成22(2010)年に改修工事
……で、二天門以外はすべて鉄筋コンクリートで再建された建築物なのだった。本堂や五重塔よりも仲見世に並ぶ安っぽい店舗のほうが古いのだね。
本堂再建にまつわるドラマ
浅草寺については今まで興味を持ったことがなかったのだが、今回、ロケ隊を待っている間に現代風の屋根瓦やよくできた狛犬型の屋根飾りを撮ったことで、家に帰ってから調べて、本堂再建にまつわるドラマを知った。以下、簡単に紹介してみる。
浅草寺本堂は再建にあたってまったく新しくデザインされた。当初は築地本願寺などを手がけた伊東忠太が指名されたが、忠太がすでに高齢だったため、忠太の門下生ともいえる大岡實が担当することになった。
大岡はそれ以前に法隆寺の大修復を任されたが、修復作業中に金堂が火災を起こし、国宝の金堂壁画が焼損するという事故が起きた。
原因は壁画の模写作業をしていた美術作業員が暖を取るために使用していた電気座布団の電源を切り忘れたことだと、法隆寺保存工事事務所の電気技師が告白しているという。その電気技師は、過酷な環境で金にもならない作業をしていた画家を庇って、最初の火災原因調査のときには偽証したのだという。
その事故のとき、大岡は現場にいなかったが、修復作業の総責任者としてその後はずっと謹慎させられていた。
そんなことがあった後に、伊東忠太に指名されて浅草寺本堂再建という大仕事を任されたわけだが、その際、
「終戦後復興される社寺建築を見ると余りにも日本古建築の真髄を無視した建築が多いので、永年にわたって身につけた技術を社会に奉仕しなければ申し訳ない」
(しかし)「構造が全く変わったのであるからその材料・構造の特質を生かした、形も全く新しい形にすべきである」
「人々の浄財によって造られる宗教建築が一度の火災によって烏有に帰し、又々巨大な財力を集めなければならないという様な事は技術家としてなすべきではない」
「再びこのような材料は集まらないと同時に費用も大へんな額になるわけで、構造は費用・防火の点から木造でやるべきではない」
とも考えたようだ
(「社寺建築 美の追求」 大岡實の設計手法 大岡實建築研究所 )。
法隆寺金堂の火事を体験したことで、「木造でやるべきではない」とまで言いきるに至ったのだろう。
結果、
「全体としてはボッテリした江戸時代建物の感じを出すべく努力した。しかし永年日本の古い建物に親しんできた私には組物や軒廻りや部材の比例等においては江戸時代そのままを再現する気にはなれず、その間に鎌倉時代や奈良時代の形式を取入れてまとめあげたのである。即骨組の大きさの比例や細部においては古いゆったりとした感をねらったのである。そして江戸時代の華やかさは装飾や飾金具で出す計画を立てたのであって、将来は長押、柱等に更にはなやかな装飾を附することが望ましい。」(昭和本堂再建誌「所感-設計監理について-」)
……という考えのもとに現在の本堂が作られたらしい。
鬼瓦のデザインが現代的なのも、屋根に狛犬風の飾りがつけられているのも、こうした設計者の意図を知ると、なるほどそういうわけだったのか、と分かってきて、面白い。