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のぼみ~日記2018


2018/09/26

ここだけの「こころ旅 福島編」

NHK BSでやっている火野正平の「こころ旅」をときどき見ている。
次に福島編が始まることがあれば、投稿しようかなと思っていたのが「福島競馬場裏門周辺と阿武隈川の土手」。
4歳頃の想い出。
ところが、気づいたら福島編の締切が昨日だった。出しそびれたか……。

じゃあ、せっかく書くつもりになっていたので、せめてここに残しておこうかな。

私が訪ねてほしいのは、福島競馬場裏手(門の周辺)と、その東側を流れている阿武隈川の土手道です。
私は1955年に福島市内の日赤病院で生まれました。
父親は福島県の職員で林業関係の担当で、出張の多い人でした。母親は都内聖路加病院などで看護師をしていましたが、当時は看護師をやめて、福島大学附属中学校の養護教諭をしていました。
父親は、白河の結核療養所で療養していたとき、看護師をしていた母と知り合い、退院後に結婚したようです。

母は当時でいう「職業婦人」意識の高い人で、私が生まれた後も、すぐに職場復帰し、私は記憶があるときからずっと鍵っ子でした。
親が職場に出かけてから戻るまでは、雇われ乳母が食事の世話などに通っていたようですが、歩けるようになってからはほとんど近所の年上の悪ガキたちに連れ回され、母が帰宅するまでは家の外で遊んでいることが多かったと記憶しています。
当時の家は福島競馬場の裏手にあり、家は3軒か4軒続きの木造平屋の長屋。風呂はもちろん、トイレもなくて、外(長屋の敷地内)に共同便所と小さな風呂場(交代制で入れる)がありました。大雨の日や真冬は外の共同便所に行くのが辛かったのを覚えています。

両親は私が4歳か5歳くらいのときに離婚し、私は母に引き取られました。
通っていたキリスト教会付属の幼稚園で、ある朝みんなの前で「今日からソエダくんはホソノくんになります」と紹介されたのを覚えています。母親が旧姓に戻ったので、引き取られた私の姓も変わったわけですが、母は、そういうところは徹底する意志の強い人でした。振り回される子どもはたまったものではありませんが。

で、両親の離婚後も母と私は同じ長屋に残り、私は相変わらず近所の年上の悪ガキについて回り、玩具を取り上げられたり、私自身が彼らの玩具にされたりしていました。
その悪ガキたちとよく遊んだのが競馬場裏門(今は東門といっているようです)の前に広がっていた空き地でした。天然の砂場になっていて、そこで砂山を作ったり、落とし穴を掘ったりするのが日課でした。ときには塀によじ登り、裏門のすぐそばにあった監視塔に潜り込んで遊んでいました。今では考えられないような、危険と隣り合わせの外遊びでしたね。

そんなある日、誰かが「今日は附属中学のマラソン大会だな。土手の道を生徒たちが走っている」と言っているのを聞いて、一人で阿武隈川の土手に行ってみました。
阿武隈川は、住んでいた長屋からは、競馬場とは反対側(東側)に位置していて、そこにはひとりでもよく行きました。
土手を越えて河原に降り、川の上に投げた石を何度かジャンプさせる遊びは定番中の定番。
ちょうどすぐそばに、対岸に渡したワイヤーをじっちゃんが手でたぐりながら往復する渡し舟がありました。たまにしか客がこないのですが、客を乗せて舟がゆっくりゆっくり往復するのを、飽きずにじっと眺めていたものです。
対岸は鬱蒼とした林で、誰かに冗談で言われたのか、自分で勝手に想像したのか、川の向こう側は人外魔境の怖ろしい世界だと思い込んでいました。

そんな阿武隈川の土手に行くと、確かに中学生たちが走っていました。間隔をあけて2、3人ずつ走っていました。狭い道なので一斉スタートにはせず、タイムトライアルみたいにしていたのかもしれません。
ぼうっと見ている私の横を、顔を上気させた中学生たちが荒い息で走りすぎる姿は、幼い私には妙に刺激的でした。
しばらくすると、走る生徒の姿が途切れて、一台の車がやってきました。
その車が私の前で止まったのです。
「よっちゃん」と、中から声を掛けてきたのは母でした。附属中学の養護教諭だった母は、走る生徒の最後尾から救護班としてついてきたのでした。
運転していた同僚の男性教師(?)が「え? 息子さんなの? 乗せてっちゃおうか」と言って、母は最初は躊躇していましたが「見つからないようにこっそりつれてっちゃえば平気だよ」みたいなことを言われ、その軽いノリの男性教師に押しきられるようにして、母も「来る?」と、私を車に乗せて走り出したのでした。

記憶にある限り、これが私が生まれて初めて自動車というものに乗った経験です。母の職場である中学校も、そのとき初めて訪れました。初めてづくしで、興奮した一日でした。

その後、母は附属中学の同僚だった男性教師(車に乗っていた軽いノリの男性教師ではありません)と再婚し、福島を離れ、東京に移り住みました。

時は流れ、30代になって、私は自分のルーツが気になり始めました。実父はどんな人だったのだろう、と。
そんなとき、実父が亡くなったという知らせが司法書士の事務所から届きました。実父の再婚相手の夫人の手紙が添えられていて、遺産相続の手続きがあるので、一周忌に来てもらえないかという内容でした。
一周忌に出かけたとき、何十年ぶりかで訪れた福島の町を一人で歩いてみました。
市内電車に一人乗って通っていた教会の幼稚園はなくなり、競馬場の裏手もきれいに整備されて昔の姿はまったくありません。幼稚園に行く途中にあった児童公園は残っていて、1回10円で乗れた豆自動車もありました。そのそばで、一人で幼稚園から家に帰る途中、スクーターにはねられて救急車で運ばれたこともありましたっけ。
このへんではねられたのかなあ、などと思いながら歩きましたが、その先はあまりにも風景が変わっていて、結局、住んでいた長屋がどのへんだったのかはよく分かりませんでした。
でも、阿武隈川の土手に上ると、ワイヤー式渡し船のワイヤーが留めてあったらしい柱の跡のようなものが見えました。おそらく、一人でいつも過ごしていたのはそのあたりでしょう。

今はそのときからさらに30年近く経ち、もっと風景は変わっていると思います。

競馬場裏門(東門……かつてそこは天然の砂場で、子どもがこっそり中の監視塔に潜り込んで遊んでいた)から始めて、トイレのない長屋があったあたり(今は住宅街になっているようです)の道を抜け、阿武隈川の土手に突き当たり、土手に上れる階段があると思うので、そこを上り、土手に立ってみてください。渡し船の痕跡は今でもあるでしょうか。
その土手を走っていた附属中学の生徒たちの姿や、ワイヤーを両手でたぐりながら渡し船をやっていたじっちゃんの姿を想像しながら、阿武隈川の流れを見てきてくださいませんでしょうか。



……こうやって書いてみると、テレビで読むには長すぎるな。
ま、締切が過ぎていてよかったかもしれない。


現在の福島競馬場の裏門(東門)のあたり。Googleストリートビューより



①が競馬場東門(このへんで落とし穴掘ったり、監視塔に忍び込んだりしていた)
②がトイレのない長屋があったあたり
③がよく行っていた阿武隈川の土手で、④のところにワイヤー式渡し船があったと思う



で、この日記が今年200ページ目の日記になった。
書いている今日は9月30日で、今ちょうど颱風24号が来ている。外は暴風で怖ろしい。


↑エントロピー環境論を子どもから大人まで伝えたいという気持ちで書いた、これは私の「遺言」です。



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