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のぼみ~日記 2020

2020/01/03

種なし葡萄農家と「原理主義者」の話


元日のテーブルの上
去年も年頭に「今年のスローガン」を決めたような気がするのだが、思い出せない。そのくらい頭が惚けてしまっている。
今朝は明け方いろんなことが頭の中を巡り始めて、仕方なく早起き(といっても9時ちょっと前だけど)してしまった。忘れないうちに書き留めておく。

世の中には種なし葡萄とか種なしスイカとか種なし柿とかといった、本来種のある果実を品種改良して種をなくした果実品種がある。
「私は種なし葡萄専門の農家の長男として生まれ、3代目だ。おいしい種なし葡萄を生産することに誇りを持っている」というような人もいるかもしれない。
一方で、「果物から種をなくしたらその種は滅びてしまう。食べやすいように種をなくすなどというのは自然の摂理を冒涜する人間の驕りであり、愚かな行為だ。そもそも葡萄は種があるからこそ絶妙な舌触りや食感が生まれて本来の味を楽しめるのである」と主張する人もいるかもしれない。
前者が「親から受け継いだこの伝統を守ることこそ我が人生」的な思考停止をすると、間違いに目を向けず、ひたすら現状肯定をする生き方に固執し、進歩や正義を喪失した社会を構成してしまうかもしれない。
後者が行きすぎると「果実原理主義」みたいなことになり、ありとあらゆる品種改良は悪である、なんて話を展開し始めるかもしれない。
種なし葡萄農家と果実原理主義者が論争しても実りのある結論は出そうもない。
場合によっては、果実原理主義武闘派みたいなグループが現れて、種なし葡萄農家を襲撃し、農場を破壊するなんてことが起きるかもしれない。
冗談ではなく、歴史を学べば、そんな感じの戦争やテロはいくらでも起きている。

世の中のほとんどの人たちはこの両者の論争にはあまり興味がない。おいしい葡萄を作る苦労を経験したこともないし、おいしければ種はないほうが食べやすくていいかな、と思う程度だ。
「超絶に美味い種あり葡萄と、そこまで美味くはないけど種のない葡萄、どっちを選ぶ?」なんていう問いを考えついて楽しむくらいのことで、農場襲撃や「農作物の品種改良に関する制限法律制定問題」みたいなことに首を突っ込もうとは思わない。

平均律楽器と純正律主義者

ジャズという音楽は平均律(1オクターブを12で均等に割った音階)を大前提としている。1つの楽曲の中で、転調が自在に使えるのは平均律しかないからだ。
ギターのようなフレットのある弦楽器もまた、構造上、平均律を大前提にしている。
これに対して、3度5度の音のハーモニーが美しく響くことを重要視する純正律(周波数の比が単純な整数比である音程のみを用いる)こそが音楽的な音律であり、「平均律はすべての音が平均に狂っている調律にすぎない」と主張する「純正律至上主義者」みたいな人たちも存在する。
この両者が論争を繰り広げても、実りある結論が出るような気がしない。
純正律でハモれば澄んだハーモニーが生まれることは確かなので、転調がない楽曲のコーラスなどは純正律で歌ったほうが心地よいだろう。
その場合、ギターのような平均律楽器で伴奏すると微妙なずれが生じて気持ちが悪いことになる。ピアノも、ある調の純正律で調律しなければ純正律コーラスの伴奏には使えない。そんな不自由な音楽は窮屈で楽しくないと主張するジャズ演奏家の主張ももっともであろう。

で、世の中のほとんどの人たちはこの両者の論争を理解することもできない。ただ、自分にとって心地よい演奏に触れて感動し、涙を流す。
それは純正律で完璧にハモるウィーン少年合唱団のコーラスかもしれないし、超絶技巧でテンションだらけのアドリブを繰り広げるジャズギタリストの演奏かもしれない。

ちなみに私自身はメロディを音楽の最重要要素としてとらえているので、「メロディ至上主義者」という偏狭な少数派なのかもしれない。

「感動」はどのように生まれるか

純正律で完璧にハモるウィーン少年合唱団のコーラスも、超絶技巧のジャズプレイヤーのアドリブソロも、並外れた努力と訓練の結果生まれる果実である。
これらを聴いて感動する人たちは、まずその「結果」である「音そのもの」に感動し、次に、どうしたらこんなことができるのだろうと想像する。自分には到底できないな、すごいな~……と、人間としての生き様に思いをはせて二次的な感動も覚える。

スポーツ選手の姿に感動するというのも、二種類の感動があるように思う。
まずは、超人的な身体能力を見て、理屈抜きに感動する。カッコいい。すげ~。なんだこれ、人間じゃない! ……と。
もう一つ、超一流までは届かなくても、1つの目標に向かって超人的な努力をする選手の姿や背後の物語に対しての感動というものもある。
今日は箱根駅伝復路をやっているが、駅伝を観戦していて、美しいフォームで駆け抜け、とてつもない記録を叩き出す選手はカッコいい。一方、人一倍の努力を重ねてきながら、規定時間内に中継所にたどり着けず、襷を渡せずに倒れ込む選手の姿を見ても涙する。

……と、こういうことを書いていると、「いい作品を作って感動させてくれるだけでいいんです。せっかく感動しているのに、その後で理屈を聞かされると醒めてしまいます」と言われたりする。
それはそうだろうな~、と思う。
さらには、「人は、何でもできる人は尊敬しないんです。1つのことに愚直に向き合う人を『芸術家』『専門家』『一流』として尊敬するんです」とも言われる。それは嫌というほど経験してきているので、言われなくても分かっている。

そこで今年のスローガン

去年あたりから少しずつ自分に言いきかせている。
他人の評価を気にするな。自分が「いい」と感じること、自分が理屈抜きで感動することをやれ。無理はしなくていいけれど、まっすぐに向き合え。迷ったら、自分の「感動」を信じろ。その結果、自分の外にも感動が生まれるなら、それに越したことはない。
……と。

長くなったけれど、これを今年のスローガンとしよう。
元日、池に氷が張ったのを今冬初めて確認した

(追記)
2019年年頭に抱いたスローガンって、何だったんだろう……と、去年の日記の1ページ目を確認してみたら、こんなことを書いていた。
階下に降りていくと、Eテレのらららクラシックという番組をBGM代わりに流していて、チェンバロ奏者がこんなことを言っていた。
「バッハは聴衆を喜ばせようというショーマンシップではなく、職人として、この宇宙の摂理を作った神に恥ずかしくないような音楽を作ろうとしていたのだと思います」
……ん? 
そのフレーズ、なかなか深いね。
もちろん、その「神」は人によって違う。「職人」という意識があったかどうかも分からない。
しかし、聴衆に媚びない、神に恥じないようなものを作る、というのは「いいね!」。
去年は、「人生死んだ後が勝負」という達観が、達観ではなく、煩悩まみれだと気づいた。その先を意識しないと、創作は続けられないなあと思っていたところに、円丈さんの「人生死ぬときが勝負」「自分を評価できるのは自分しかいない」という手紙が届いた。
で、死んだ後の「この世」に評価してほしいと未練を残すのではなく、自分の中にある宇宙のようなもの、そのわけのわからない価値観のためにメロディの価値を信じる……というような気持ちに切り替えよう、なんて思いながら年を越したところだった。
いいじゃないの、これ。「神に恥じない音楽」を、今年のスローガンにしてみようかな。
それとは別に、「人生死んだ後が勝負」路線(?)は、人生最後の小説が書けるかどうかへの挑戦、という形で継続させられたら、と思う。

……なんか大仰だけど、内容は今年のとあんまり変わらないか……。

ちなみに、「人生最後」かどうかは分からないが、去年、小説は書いた。かつて書いていたものとはだいぶ違うものになったので、これで「死んだ後に勝負」できるとはまったく思っていないけれど、むしろこっちのほうが「神に恥じない」ものとして書いたかもしれない。

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「神の鑿」石工三代記の祖・小松利平の生涯を小説化。江戸末期~明治にかけての激動期を、石工や百姓たち「庶民」はどう生き抜いたのか? 守屋貞治、渋谷藤兵衛、藤森吉弥ら、実在の高遠石工や、修那羅大天武こと望月留次郎、白河藩最後の藩主で江戸老中だった阿部正外らも登場。いわゆる「司馬史観」「明治礼賛」に対する「庶民の目から見た反論」としての試みも。


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