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のぼみ~日記 2020

2020/01/06


ジャンケンに弱いみ~。なにせグーとパーしか出せないもんな

20年前の私

年明け早々、箱根駅伝の話を続けたが、「2区の最強ひょっこりはん」がきっかけで、10年前、20年前のことを再確認することになった。
柏原竜二くんの写真と共に「山の神様以来のたくき先生のつっこみ」というコメントがついて、え? あたしって柏原のことをいじったことがあったっけ……と確認してみた。nikko.us内で「柏原竜二」を検索したところ、去年の1月2日の日記がヒットした。
中継を見ていたら、沿道で「学石祭」と書いた団扇を振って応援している人がいた。学法石川出身選手の応援かな。
ネットで確認したら、東京国際大・真船恭輔、順大・山田攻、東洋大・相沢晃、明大・阿部弘輝、早大・半沢黎斗、日大・阿部涼、東京国際大・芳賀宏太郎……みんな学法石川。確かに「学石まつり」だ。
往路では絶対本命といわれていた青山学院が往路優勝の東洋大と5分30秒差。これをひっくり返すのは至難の業。やはり「山の神」が出てこないと難しいんだね。今年は何人もがハイスピードで駆け上がり、ネット上では「山の神々」と呼ばれたりしている。
東洋大は、酒井俊幸監督が小林和平を生んだ福島県石川町出身で、母校学法石川の生徒たちは和平の親子獅子の間を抜けて石都都古和気神社 の参道を上り下りしてトレーニングしている。
今回4区で区間新の大活躍だった相澤晃も学法石川で、2代目山の神・柏原竜二 も福島のいわき出身で、酒井監督に見出されて東洋大入りした。なんだかんだで「神の鑿」ワールドとのつながりを感じて、応援してしまうのだわ。
あと、今の東洋大には小笹椋というイケメンランナーもいて、相澤と印象が被る。酒井監督も色男だしねえ。
でもね、あんまり女の子からキャーキャー言われると陸上に集中できないだろうから、柏原タイプが多いほうがいいかもしれない。

のぼるくんがツッコミを入れている↑
ああ、これか。なるほど。
さらには ⇒この日記もヒットした。2010年1月2日付け、タイトルは「10年前の私」となっている。
懐かしいジョン。原発爆発の1年前の正月


そこにこんな記述があった。
箱根駅伝が終わると正月も終わる。今年は特に、4日が月曜日だからそういう気分。
福島の星・柏原竜二はすごいねえ。名前がすごいよね。りゅうじ。都会の軟弱な子の名前じゃない。
身体が丈夫そう。背もあるので、将来マラソンに出てきたときも、アフリカ勢としっかり張り合えるかもしれない。楽しみ。

竜二はマラソン選手としては大成できなかったが、今年もラジオで元気に箱根駅伝の解説をしている。きれいな女性と結婚もして、幸せそうだ。よかった。(なんか、親戚の子みたいな気分になってしまうのだわ)

で、なんでこの日記のタイトルが「10年前の私」なのだろうと下まで読んでいくと……、
今日、ひょんなことで、「草の根通信」の「タヌパック短信」最終号を読んでみた。

10年ちょっと前、鬱病になり、家庭崩壊したときのことが生々しく記録されている。
番外編は、少し持ち直したときに書いたものだと思う。多分、年明けくらい。
……とあって、1999年初頭に書いた「草の根通信番外編」へのリンクと、一部の引用があった。
21年前にこんなことを書いていたのかと、思わず読み切ってしまった。
ここに全文を再掲してみる。

デジタル・エントロピーの恐怖

 草の根通信版「タヌパック短信」は、最終回告知もないまま、突然終わってしまいましたが、原因は我が家の基盤が崩壊したことにあります。
 98年はひどい年でした。恐らく今まででいちばん辛い年だったのではないかと思います。不況になれば余計なゴミが出なくていいと思っていたんですが、仕事もまったく来なくなりました。「俺が作っていたものはゴミ以下だったのか……」と、頭を抱えてしまいました。
 売れない本、売れないCD、みんな今まではバブルのお情けで世に出ていたのかもしれません。
 とりあえずは経済を立て直さなければ……ということで、もはやきれい事だけ言っているわけにもいかなくなりました。清貧をモットーとする「草の根通信」に、そうした汚れた気持ちのままエッセイを書き続けるのは失礼だと思い、連載を打ち切らせていただいたわけです。
   
 最近、「デジタル・エントロピー」というものを考えるようになりました。
 
 こんなことです。
 【「日本を、とめよう」キャンペーン中】 
 興奮してがんがんレスを書き、収拾がつかなくなったことはありませんか?
 メールの不用意な一言で、ケンカになったことはないでしょうか。それは、レスポンスの速さに負けて、自分のペースを見誤っているのです。ネットに限ったことではなく、今の日本、スピードが速すぎる、と思います。
 そこで私は日本をとめたいのですが、そこまで偉くはないので、個人的に、私をとめることにしました。戴いたメールはよく読み、考えてからご返事を出しますので、どうか、焦らずお待ち下さいませ。m(__)m
 むろん、急ぎのご用事には、迅速に対処致します。
 
 ……というようなものです。 

 これに対して「最近あまり言われなくなった『テクノストレス』という言葉は、コンピュータやインターネットへの『不適応』問題を指したものですが、今はそれ以上に、『過剰適応』問題が深刻になっている」という指摘などもいただきました。
 その通りだと思います。

 こういう内容の本を書きたいんですが、今のところ、誰も相手にしてくれません。(興味を持っていただける編集者のかた、ぜひご連絡ください)

 一方で、また「エントロピー」かよ……と、顔をしかめる人もいました。エントロピーという言葉を聞いただけで不愉快になる人がたくさんいるんだから、もうやめなさいよ、というわけです。

 はい、そうします。(^^;;
 
 ただ、これからどんどん通信が発達し、表現の世界でもデジタル技術が発達していくわけですから、どこかでこの「デジタル・エントロピー」というものを意識していないと、気づかないうちに大きな失敗をするような気がしてなりません。
(そう言いながらも、こうしてインターネット上に長文を掲示しているわけですけど)

Θ_Θ; Θ_Θ; Θ_Θ; Θ_Θ; Θ_Θ;

 さて、世の中では「経済再建」が叫ばれていますが、物理学者の槌田敦氏からの年賀状に、こんな言葉がありました。
『不況』は予想以上に深刻です。その原因は、需要以上に供給したことです。そこで、供給を増やさず、需要を増やすには、たとえば、国有銀行を作り、民間銀行から資金を借りて、失業者に生活資金を貸し付けます。そして、収入が得られるようになったら返金させます。
 しかし、現在とられている政策は、低金利、貸し渋り対策、規制緩和、消費税の増税策など、供給を増やし、需要を減らすことばかりです。ますます不況は深刻になるでしょう。何のために経済学があったのでしょうか。(以下略)

 供給を増やさずに需要を増やすという発想は、とても大切だと思います。
 今までは、安かろう悪かろうでも、物を大量に生産することがよいこと(経済の発展には不可欠なこと)とされてきました。
 しかし、これでは破綻は目に見えています。量的な発展というのは、必ず限界があります。地球が宇宙空間に向かって捨てられるエントロピーの量を超えて生産することなど不可能だからです。いつまでも成長し続ける生物がいるとしたら、適正な寿命を迎える前に死ぬはずです。当たり前のことなのに、なぜ「生産量を増やし続ける」ことにだけ目を向けるのでしょうか。いい加減に、そんな子供っぽい幻想からは脱却しなければ。

 例えば、自動車産業を例に取りましょう。
 いつまでも古くさくならない、「文化」としてかっこいい車を作れば、長く乗る人が出てきます。そうすると、廃車というゴミが減ります。
 でも、さらによい車を作り続ければ、お金のある人はやはりその車を欲しくなります。で、それまでに乗っていた車を手放すわけですが、その手放した車は依然として「よい車」なので、中古車として購入したいと思う人もたくさんいます。中古車業界の需要が増えると同時に、リユースが成り立ちます。
 傷んでも乗り続けたいほどよい車だから、修理する人も増えます。修理業界の需要が増えます。中古部品などのリサイクルも増えます。
 しかし、全体としての新車生産台数は減るでしょう。少量生産になり、新車一台あたりの値段は上がります。でも、それはしょうがないことです。自動車を作ること、自動車を走らせることは環境に負荷を与えるわけだから、それなりの経済的負担がなければ歯止めが利きません。
 そういう世の中は、今までの新車大量生産時代より不幸でしょうか?
 僕は決してそうは思いません。車への愛情が深まるだろうし、結果的には多くの人が質のよい車に乗ることができる、よい世の中ではないかという気がします。
 新しい車が欲しいという気持ちは、今の車がださくて愛情を持ち続けられないから起こるわけです。そういう下品で質の悪い車を作り続けた世の中を恥じるべきです。
 本やCDも、少品種大量生産→大量のゴミ……という時代はもうやめたいものです。多品種少量生産でリサイクル。本当によいものだけがそこそこに売れて、しかも古本屋や中古CD店を通じて長いサイクルで生き延びるという世の中のほうが、文化の質は確実に向上するはずです。
 そうした多様性と循環経路の豊かさを誇る世の中では、土建業者や大規模生産業者が一時的に整理されていくのは仕方のないことだと思います。でも、本物の技術を持った専門家や、きめ細かなサービスを提供する職業は生き残り、きちんとした競争をして、自分の仕事に誇りを持てる世の中が作れるかもしれません。
 いいじゃないですか、そのほうがずっと。

 デジタル技術はそうした「本当の多様性」「質の向上」を支えるための手段として利用されなければなりません。インターネットは空っぽの洞窟などということは決してありません。なんでもありの世界だからこそ、淘汰されていくものが出てくるし、見つけるべき情報の宝もあるのですから。
 
 我が家は見事に一旦崩壊しましたが、僕は今、デジタル・エントロピーも不況も乗り越えて、新しい生き方を模索しようとしています。
 草の根通信版タヌパック短信はこれで終わりますが、そのうちに余裕が出てきたら、タヌパック版エントロピー入門教室シリーズでも始めてみようと思います。
 おいおい、またエントロピーかよ……って? まあ、僕にしてみれば、もはやこれは主義主張を超えて、趣味の領域に戻ってきていますから、お気楽にいきますよ。もし、興味のある方がいらっしゃいましたら、そのときはまた、よろしくおつきあいのほどをお願いいたします。
「草の根通信版タヌパック短信」本当の最終回に代えて。

1999年初頭  たくき よしみつ


↑こんな内容。

これを読んで、なんだ、俺はこの20年、同じことを言い続けていただけだなぁ、進歩がないのか……と思ってしまった。
どれだけ言葉を連ねても、世の中が変わるわけじゃない。それどころか、行き着くところまで行かないと(つまり、敗戦後の日本みたいにとことん打ちのめされないと)世の流れは変わらないのだろうという気持ちが強まるばかり。

しかし、自分の中では変わったことがある。
20年前の自分は、この「番外編」の冒頭に書いたとおり、本当にとことんダメになり、家庭崩壊していた。その状態からはなんとか抜け出して、今はふてぶてしく生き抜く力を身につけたと思う。これは大きな違いだ。

ちなみに、「草の根通信」のタヌパック短信最終回はどんなことを書いていたのだろうと思って、それも読んでみた。
こんなことを愚痴っていた。
例えば、書店である本を注文したとします。その書店は、東販や日販といった大手取次店にその本を発注します。例えばそれが300円の文庫本だった場合、取次は自社内に在庫がない場合、「在庫なし」としてそれ以上取り合わないことがあります。儲からないからですね。
(略)
 取次店を通すと、通常は本が入荷するまでに2週間くらい待たされます。こんなひどい流通システムが現代の日本で残されていること自体、非常に疑問を感じます。
 僕の『マリアの父親』(「小説すばる新人賞」受賞作)を、千葉の読者が、発売の2週間前から近所の書店を通して予約していました。結局その人の手元には、2か月経っても届きませんでした。
 横浜の小さな書店では、世間の流行には関係なく、店主がよいと思った本だけを並べてお馴染みの客に自信を持って売るという方針を貫いています。この店で『マリアの父親』もぜひ多くの人に読んでもらいたいからと、店としては破格の10冊を取次に発注しました。2か月経っても本は届かず、ようやく届いたとき、発注書の「10」という数字は勝手に横棒で消されて、「1」に書き直され、1冊だけが他の本と一緒に届いたそうです。
 出たばかりのときにこういう有様なのですから、ましてや発売後数か月、数年経てば、推して知るべしです。読者や書店、あるいは出版社の意向を無視して暴走する大手取次とはなんなのでしょうか?
 本というものは、元来、「少部数多品種」の文化でした。マスメディアではなかなか見つけられない情報を、本ならば届けてくれるという使命があったはずです。
 しかし、大手取次は今、「大部数少品種」への道を築こうとしています。そのほうが効率よく儲かるからです。これは、日本の音楽ビジネスがたどった道とまったく同じです。
 数百万枚売れるCDだけをどかどか売りまくり、数千枚単位のCDは、たとえどんなに内容が素晴らしくても切り捨てていくという方向です。「質より量」というのは、バブル期に日本人がおかした失敗です。
 
「今、どんな本(音楽)が売れているの?」という質問は、恥ずかしい質問です。どんな本が面白い本なのか、どんな音楽がよい音楽なのか、それは自分で見つけるべきです。マスメディアの情報に頼っているばかりでは、本物の文化・芸術はどんどん消えていくのだということを自覚するべきです。 

↑はいはいはい。
20年前はまだ達観できていなかったので、こうして愚痴っていたんだわね。今はもう、この問題は自分の中では整理ができていて、愚痴るよりも、何ができるのかということを考えるようにしている。書くこと、創ることのモティベーションを持ち続けるための方策を。

電子書籍を経て、去年はISBNコード取得、Amazonでの販売、国会図書館への納本といった方法を、頭の中だけでなく実行に移した。
ものすごく久々に長編小説も書き上げた。しかもまったく経験のないジャンルで。
それらを淡々とやれたことは、ここ20年で自分は変わってきたからだろう。
特攻機に乗せられて「陸軍のバカヤロウ!」と叫びながら命を終わらせなければならなかった人たちなどに比べて、今の自分はどれだけ幸せな人生を送っていることか。
駅伝選手のゴール後の言葉ではないが、本当に「支えてくれた人」がいたからこそ、今もこうして生きていられるのだと思う。何気ない言葉や行動にヒントをもらったり背中を押されたりしてできあがった作品もいっぱいある。
例えば、去年、国会図書館への納本について調べて、ISBNコード取得やAmazonとの契約まで動けたきっかけは、イラストレーターの高橋克也氏が手作りで作っていたアングラ雑誌?「電撃地下通信」を思い出したからだ。あとがきか何かで「国会図書館でも読めるぜ」みたいなことを書いていた。
彼のことは、「草の根通信版 タヌパック短信 19回」でもちょろっとこんな風に書いていた。
 貧乏自慢と車椅子暴走族
 僕の今度の小説『アンガジェ』には、鳥五郎という車椅子生活者のイラストレイター兼ミュージシャンが登場します.この鳥五郎の人物像は、「電撃地下通信」という怪しげな自費出版雑誌(発行人は高橋克也氏。指名手配中の同姓同名の人物とは別人……念のため)に連載されている『闘う車椅子』というエッセイがヒントになっています。
 執筆しているしばさきたいぞう氏は、テニスや車椅子マラソンなど、車椅子スポーツにはめっぽう強いようで、テニスなどは、友人の高橋氏が本気を出してもまったく歯が立たないとか。
 そんなしばさき氏の書く、一種暴走族雑誌の雰囲気さえ漂う(?)車椅子の描写や蘊蓄は、僕にはとても新鮮なものでした。
 車椅子というと、普通なら「不自由」なイメージがつきまといますが、彼が車椅子を語り始めると、いかに素晴らしい「マシン」か、車椅子を知らない我々にも生き生きと伝わってきます。自由というのは、いろいろな形を持っているもののようです。


(略)

 僕は学生時代、楽器やレコードが欲しいとは思っても、高い衣服や靴が欲しいという発想がそもそもありませんでした。
 今でも身につけるものには極力金をかけない主義で、例えばTシャツは三百円から五百円。百円で売っていればとりあえずまとめ買い。Gパンは千円から高くても三千円。靴も、よそ行き用で四千円どまり。友人たちからも結構呆れられるのですが、それを聞いていた高橋氏、「ぼくは服にはお金を使いません。着られなくなった頃、誰かがくれますから」と、ぼそり。そういえば、彼のパソコンも、見るに見かねた年下の学生から「無期限貸与」されたもの。貧乏道の師匠と呼ぼう。
 大掃除の季節。捨てられぬ不自由! どうでもいいような「物」でとっちらかった部屋を目の前に、身軽になれない自分の未熟さを恥じ入ります。

……これまた、今も同じだなあ。金銭感覚が20年以上前と変わっていないのには自分でも驚く。
高橋克也氏のように、見えないところで人生を導いてくれる人が、私にはたくさんいたのだと思う。
感謝。
「あ、そうか! チョキの代わりに爪を出せば紙を破けるからパーに勝てる!」……ムニャムニャ……
……あ~、それは痛いからやめて……




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