ようやく見つけたと思うと、田圃の真ん中あたりにあってまったく手が届かない↑
秘密池に行ってみたが、シ~ンとしている。カエルの声も鳥の声もない。
チュウダイサギ?
サギ。ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、ゴイサギ……このへんではすべて見ることができるが、ダイサギ、チュウサギ、コサギは全部真っ白で、大きさだけの区別が難しい。これは大きいほうはダイサギよりちょっと小さい気がするし……。
でも、首の長さからするとやっぱりダイサギか。もう一羽はチュウサギ?
なんか、大中小だけでは飽き足らず?
「ダイダイサギ」とか「チュウダイサギ」なんて分類もあるらしい。
ということは、これはチュウダイサギとチュウサギ? それともダイサギとチュウダイサギ? 普通にダイサギとチュウサギ?
そのうち「チュウコサギ」なんてのも出てきたりして?? そんなの出てきたら、中古詐欺みたいでややこしくなるな……。
ツツジ
茂みの中が一か所だけ真っ赤になっている。
本日のレスキュー卵塊。どちらもかなり崩れていて、孵化するかどうか微妙。
オオカミ池の縁に置くことにした。
なるべき自然に近い形で……
乾燥しすぎても死ぬし、水浸しになっても腐って死ぬし……難しいのだよなあ。
2020/05/08
今日はランニング少年に会ったので、
「三単現」を教えた。
三単現って、教えていてほんとつまらんな。ルールを教えるだけで、だから人生が豊かになるとか、そういう方向に発展しづらい。
三単現は一種の「例外ルール」だが、サラッと教えたいのに、結局、いっぱい言葉を費やしてしまう。それがスマートじゃなくて、なんか自己嫌悪になってくる。
英語ネイティブの人たちは幼児期に三単現を理屈抜きで身体に染みこませられるのだろう。三人称単数現在だから……なんて、いちいち理屈を考えてはいないはず。
そんな風に「なんとなく」脳が適応していけばいいのだが、中学生くらいになってからだと、脳が(おそらく聴覚関連が)固まっていて、「なんとなく」では身につかない。みんながみんなそうではないだろうが、自分の場合はそうだった。悲しいことだが、「英語脳」を持たないまま一生を終える人生だ。
音感の話をしていて、95%くらいの人にはまったく通じないのと同じだろう。
助手さんは「あ~、また会っちゃったよ。めんどくさいなあ……」って思われてるんじゃないの? と言うが、そうでもなさそうだがなあ。
コロナで学校に行けないから、毎日一人で、家族以外とは会話もない。
近所の変なおっさんでも、話ができるのはいいんじゃないだろうか。実際、ニコニコしているし。
栃木人は口数が少ない。会話がそっけない。その空気感に慣れるのに時間がかかった……というか、今も慣れない。
たまに都会に出ていくと、初対面の人ともガンガン会話が弾むし、相手の表情も豊かだ。それが普通のことだと思っているから、栃木に戻ってくると、「俺って嫌われているのかな?」と感じたりする。
生粋の栃木県人が言うには、栃木県でも北部はその傾向が顕著なのだという。栃木市、佐野市のように南に行くとそうでもないという。
また、北部でも今市は極端に淡泊、従順で、鬼怒川あたりまで行くとまた違うという。
なんでだろう。
どれだけ意味があるか疑問だけれど、
森水学園第三分校に「コロナ対策特別編」として、中学生くらいを対象とした英語講座?を開講してみた。
動画でやればいいんだろうけど、そこまでは頑張れないし、役割が違うと思う。
当初は、これは「台本」で、誰かが動画にしてくれないかな、などとも思っていたが、今はこのまま「読み物」に徹したほうがいいんじゃないかと考え直している。
動画全盛時代だからこその「読み物」。英文法のお勉強みたいなものは、文字を自分のペースでじっくり読めたほうがいいだろうし、何度でも読み直せるし。
このまま続けられるのか? 気力の持続がいちばんの問題だな。
「こんなことしてて、なんの意味がある?」って、毎日自問している。
音楽は、届く相手がごく少数であっても、少なくとも自分がよきリスナーになっているから、自分のために作る。
でも、これは違うもんなあ。自分のためじゃない。しかも、誰かのためになるのかどうかも自信がない。近づいてはいけない領域、お門違い、余計なお世話、勘違い……そんな気がどうしてもしてしまう。
ウクレレ教室のときもそういう迷いはあったのだが、今あれを見てみると、そんなに「無意味」なことをやったわけではないと思える。自分でも「なるほど、そうか……」なんて思いながら見ている。
英語講座はどうかなあ。自分がやってきたこと、今の自分にまったく自信がないから、それを可能性が無限にある子供相手に発信するという行為に、大いなる疑問というか、躊躇いをどうしても感じてしまうんだよなあ。
でもまあ、ここまで始めてしまったから、もう少し続けるかな……。