3体並んだ如意輪観音は、おそらく字(あざ)別に女人講が建てたもの。右がいちばん古くて享保19(1734年)年。左が文政7(1824)年。真ん中が文政8(1825)年。
78人も女性が集まっている十九夜講は相当な規模なので、複数の集落が合同で金を出したのかもしれない。
右側のと左側のとでは90年の開きがある。同じ講の世代が違うとも考えられるが、左と真ん中は1年違いなので、別々の講(集落が違う)なのだろう。隣の集落が建てたからうちも建てましょう、ということで、負けずにもっと大きなものを建てたような感じ。
ライバル意識があったのかも?
薬師如来については、
大抵、薬師如来は左手に薬壷を持っています。右手は施無畏印、左は与願印ですから、医薬を与えるのが薬師如来の本願だというのです。蛸薬師、石薬師など庶民信仰も盛んです。絵馬に「め」の字を右書き、左書きに沢山書いて、めめめめめと眼病を薬師さんに祈る人々何ともほほえましいではないですか。
(拝島大師本覚院サイト より)
などの記述から、この薬師如来の上に貼ってある「め」と「め」の逆さ文字も眼病平癒祈願だろう。「
目治薬師」などの看板を掲げている寺院もあるくらいで、昔はいちばん深刻な病気が眼病だったのかもしれない。
それにしても、以前は手書きだった「め」が、ついにパソコンとプリンターで……。時代っすかね~。
このお堂がいつ頃、どんな経緯で建てられたのかは分からないが、石仏や燈籠の建立年からして亨保年間にはすでにあったのだろう。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、文挟村、板橋村、小代村、明神村、長畑村、手岡村、岩崎村、小倉村が合併し上都賀郡落合村が成立する。
(Wikiより)
……これらの村の名称はすべて今も残っている。この村々の中にさらにいくつかの字があって、女人講が盛んで……もしかすると今より江戸時代のほうが人口が多かったのかもしれない。
「日光如意輪観音マップ」とか作ると面白いかな。中学生の夏休みの課題としてどうでしょうね。