一つ前の日記へ一つ前 |  目次   | 次へ次の日記へ

のぼみ~日記 2020

2020/10/11

明治神宮内陣の狛犬


伊勢神宮や明治神宮など、「神宮」と呼ばれる超有名神社には狛犬はいないといわれている。
『新・狛犬学』に書いた通り、伊勢神宮には木彫彩色の狛犬がいるのだが、倉庫にしまわれたまま門外不出となっていて見ることができない。
明治神宮にも同じように木彫の狛犬がいるが、内陣に置かれていて一般の目に触れることはない(……といわれている)。

どちらも、狛犬は建物内に置かれる宮中の伝統的な装飾備品として認識されているためだろう。
庶民が江戸時代から盛んに奉納していた石造りの参道狛犬と一緒にされては困る、という意識があるのかもしれない。

明治神宮は、「明治天皇を祀る神社」として、明治天皇の崩御後の大正9(1920)年に創建された新しい神社だ。今年は創建100年ということになる。
社殿を含むほとんどの施設は昭和20(1945)年4月にアメリカ軍の空襲により境内に1300発以上の焼夷弾が落とされてことごとく焼失した。現在の社殿は戦後に再建されている。

「明治神宮の狛犬」については、今までいろいろな話が出ていたが、どれも実物を見たという人の話ではなく、謎が多かった。
最近、こまけんの阿由葉編集長に教えられて、国会図書館のデジタルコレクションで、「明治神宮御写真帖 : 附・御造営記録」というものに掲載されている写真を見ることができた。
明治神宮創建の年である大正9年に帝国軍人教育会が刊行したもので、明治神宮ができるまでの経緯や、当時の写真などが多数収録されていて、非常に興味深い。
そこに収録されている写真がこれ↓(著作権保護期間終了)

大正9(1920)年、帝国軍人教育会編纂の「明治神宮御写真帖」より


キャプションにはこうある。

内陣御装飾の獅子狛犬にて、()(これ)は、斯界(しかい)(この分野)の巨匠米原雲海氏惨憺たる苦心の彫刻なり。

この米原雲海という彫刻家は、
明治2年(1869)出雲国安来(現島根県安来市)に生まれた。(略) 初め建築彫刻を学び大工となったが,京都や奈良の彫刻に触発されて彫刻家を志し,明治23年には上京して,高村光雲(たかむらこううん)(1852~1934)に師事した。その後,日本美術協会展や内国勧業博覧会等で受賞を重ね,山崎朝雲(やまざきちょううん)(1867~1954)とともに光雲門の双璧と称された。明治27年には,師光雲の号にちなみ雲海と号した。明治28年には東京美術学校雇(やとい)となり,同30年まで勤務する。西洋彫刻の制作法も採り入れ,明治30年には石こう原型をもとに比例コンパスを使って拡大する技術を用いて《ジェンナー像》を制作し,木彫界に革命を起こした。明治40年には岡倉天心(おかくらてんしん)(1863~1913)の下,山崎朝雲や平櫛田仲(ひらくしでんちゅう)(1872~1979)らとともに日本彫刻会の結成にも参加し,以降,東洋的な題材の作品を多く制作する。文展や帝展の審査員も歴任し,大正8年(1919)には長野善光寺の仁王像を光雲との合作により完成させる。大正14年死去。
(「文化遺産オンライン」より)

だそうだ。
比例コンパスというのは、原型にコンパスをあてて、一定の比率で拡大・縮小させるための道具。今なら3DプリンターやNCルーターといったコンピュータを使った技術で簡単にできるが、明治時代にはコンパスを使って原型を拡大・縮小コピーすることも画期的なことだったのだろうか。

で、一目で分かるが、これは日光東照宮陽明門にある狛犬と同じものだ。

↑米原雲海作とされる明治神宮内陣の狛犬



↑日光東照宮陽明門の狛犬。2017年撮影
そして、もちろんこれも言うまでもなく、日光東照宮陽明門の狛犬は、国の重文になっている大宝(だいほう)神社の木彫狛犬(鎌倉時代)を模したものだ。

大宝神社の木彫狛犬 (京都博物館「狛犬」より)

そして、この大宝神社の狛犬は、日本中にある岡崎古代型狛犬のモデルにもなっている。

米原雲海はこれらを忠実に模して制作したわけで、自分のデザインではない。
しかし、それは依頼者からの指示だったと思われる。
というのも、「明治神宮御写真帖」にはこんな記述もあるからだ。

神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する。それがために支払われた苦心も一通りではない。形状、紋様、彩色等は最も考証を要すべきもので、美術の上から見ても、神社の用いるべき故実の上から見ても、適当な文様や彩色を選ばねばならぬために、これらを調整せらるる裏面には、非常な苦心の存したことを伺い得られる。

同書の狛犬のキャプションには「内陣御装飾の獅子狛犬にて」とあるから、狛犬は装飾品であると認識されていた。
その上で、装飾は「国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する」という指針で明治神宮造営は進められていた。
つまり、大宝神社の狛犬こそ、「国民崇敬の中心率」となるにふさわしい「故実」であると認められたのだ。
それ故に、戦前の皇紀2600年をピークとした狛犬奉納ラッシュ時には岡崎古代型狛犬が数多く作られたし、戦後も、全国の護国神社を中心として岡崎古代型狛犬が奉納し続けられたのだろう。

明治新政府が倒した徳川政権にとっての聖地である東照宮にも、明治新政府が明治という新時代、新国体を記念するために創建した明治神宮にも、同じ大宝神社型狛犬が置かれたというのは、なんとも皮肉というか、興味深い。

で、そこまでは分かるのだが、謎がまだ残っている。
社殿を含めてほとんどの建造物は空襲で焼失しているのだから、この米原雲海が彫った大宝神社型狛犬も当然消失しているのではないか。
今も内陣にこの狛犬が残っているとすれば、戦後に作られたものであるはずだ。
米原雲海は大正14(1925年)年に亡くなっているから、当然、復刻した彫師は別の人物だ。
そもそも復刻しているのだろうか?

現在、内陣に狛犬が置かれているとしても、それが私よりも若い(昭和30年以降に生まれた)大宝神社型であることは間違いないのだろうが……。

創建時の祭典に繰り出された巨大な張りぼて狛犬

ついでに、同書に掲載されたこの写真も話題になった。
明治神宮創建時、大正9(1920)年11月1日の鎮座祭のときに登場した巨大な張りぼて狛犬。

「11月1日午前中は、鎮座祭の御式にて、午後1時より一般の参拝を許さる。青山通り表参道入り口は、参拝者ひしめき合いて、警戒線を一重に、群集潮のごとき渦を巻けり。」


()(これ)は、神宮橋畔大縁門下の側面光景にて、高麗狗の装飾威容を放ち、ひしめき合う参拝者、潮の如く雑こうせり。」
イベント用に作られた張りぼての狛犬は、意識的にかどうか分からないが「高麗狗」と表記している。
そして、ここでも狛犬は「装飾」とされている。
江戸時代の庶民がさまざまな思いを託して奉納した狛犬、石工たちが想像力を働かせ、技術を競いながら彫り上げてきた狛犬は、この時代になって、ただの「装飾」とされてしまうようになったのかと思うと、なんとも寂しい限りだ。

『新・狛犬学』
B6判・152ページ・フルカラー写真が500点以上!
1780円(税別、送料別)

Amazonで購入でもご購入いただけます。⇒こちら

ご案内ページは⇒こちら

タヌパックブックス
狛犬、彫刻屋台、未発表小説、ドキュメント……他では決して手に入らない本は⇒こちらで

★Amazonでも購入できます⇒Amazonで購入こちら


更新が分かるように、最新更新情報をこちらの更新記録ページに極力置くようにしました●⇒最新更新情報
    Twitter   LINE


一つ前の日記へ一つ前 |  目次  | 次へ次の日記へ


Kindle Booksbooks    たくきの音楽(MP3)music    目次へ目次    takuki.com homeHOME


Google
nikko.us を検索 tanupack.com を検索