キノコが萎んでいく姿を見ていたら、自分の脳もこんな感じなのかなと思ってしまった。
図解すると……、
若いとき:脳の内側にアイデアも感情ももろもろの欲も全部詰まっていて、それを元気な「腕」が動き回って集めて、勢いに任せて作品を作っていた。
エネルギーがあるから、失敗も多いけれど、偶然に傑作も生まれた。
今:脳が縮んでしまい、アイデアも感情も逃げていき、呼び戻すのが難しい。
「腕」は経験を積んでそれなりに技術もあるから器用になっているけれど、根っこが生えて動かないので、細い腕をいくら伸ばしてもアイデアや感情がうまくかき集められない。
欲望はフェイドアウト。欲が薄れているから、作品を生み出す気力もわかない。結果、50点くらいの作品は時間をかければできるが、傑作はなかなか生まれない。
……そんな感じかなあ。
これを単純に悲しんでいては、残りの人生があまりにも辛く、つまらないものになってしまう。
脳の能力が落ちた分、ゆっくり時間をかけて「世界」を俯瞰することができる、と考えよう。
どんどんバカ化していく世の中。こんな世の中で生きるしかない自分の余命を考えると、この世が「世界」だと思って、世界を相手にして自分の価値観を追求していくのはあまりにも虚しく、ストレスフル。
だいぶ前から「人生、死んだ後が勝負」をスローガンにしてきたけれど、それもまた惨めで中途半端だと気づいた。死んだ後に、自分がやってきたことを「この世」に評価してほしい、という煩悩だものね。
江戸時代に生きた小松利平が残した作品を発掘し、「すごいな~」「これ、好きだな~」と評価している私のことを、利平は知らないし、利平と私は違う世界の住人なのだ。
利平は多分「死んだ後が勝負」と思って、波乗り兎を彫ったわけではないだろう。
そこがカッコいい。(と、これまた勝手に想像する)
だから、今は、「この世は自分の死と同時に消える。この世での人生は一度きりで、自分の脳の消滅と共にカゲロウのように消えるけれど、そのカゲロウのような世界に生きた自分の中には、まったく『別の世界』が育っているのだから、その『自分だけの世界』をもう少し育てていく、という趣味を刹那的に楽しむ」というようなことでいいのかな、と思うようにしている。
うまくいえないけど、人生はうまく説明できるものじゃないからねえ。
ヒフミヨイはムナヤコトへ
回りて巡る カタチさき