↑これは
2013年、国連職員のSくん(上智大学時代の友人)が遊びに来たときの写真。
1歳違いの近所の「あ~ぴ~」姉妹と一緒に走り回っている。
そのSくんから久しぶりにメッセージが来たので、あれはいつだっけ……と発掘してみた。
あれから8年も経ったのか……。
朝、ゴミ出しに行ったら、そのあ~ぴ~姉妹の母親のしょこたんと会ったので立ち話。
ライチェル死んじゃって……と言ったら驚いていた。知らなかったという。もうひと月も経つのだなあ。
ここに来て10年目。外でわ~わ~騒いでいたあ~ぴ~姉妹も今はもう中学生で、一人はたまに家の前で竹刀の素振りをしているのを見る。その子はガレージバンド(MacOSについてくる音楽制作統合ソフト。iOS版もあるのでiPadでやっているらしい)にはまっているというので、アレンジを勉強したければYouTubeのタヌパックチャンネルを見るように、と言ったら笑っていた。
「難しすぎて分からないんじゃないかな」
「難しいことをやっている、ということは分かるでしょ」
僕としては「難しいことをしている」とは思っていなくて、ただ「ものすごく面倒なこと」をしているという感覚なんだけど、ほとんどの人には「なんか難しいことをしているらしい」という印象で終わるんだろうなあ。そういうことじゃなくて、感動というか、音楽というものの不思議さ、深さを自分なりに追求して、自分の音楽的欲求を満たせれば達成感があって……ということなんだけど、それは自分にしか分からない。説明するだけ虚しい。
ウイルスを研究する学者や毎日何十キロも走って記録に挑む長距離ランナーの気持ちが分からないのと同じようなものかもしれない。
僕もあ~ちゃんがガレージバンドにはまっているその気持ちはよく分からないわけだし。
まあ、どういうはまりかたにせよ、そこから先、どこまで頑張れるか、続くかなんだわね。
そのあ~ぴ~姉妹と一緒に走り回っていたさいもんくんは今大学受験の真っ最中。よりによってコロナ禍の年にあたるとはねえ。
Sくん一家は今はバンコクに住んでいて、コロナのおかげで気軽に日本と行き来できなくなったという。戻ってきたときに2週間の完全隔離になるから、そのホテル費用とかで数十万円だとか。
歳を取ると時間が流れるのが早いと感じるけれど、年寄りの生活はほとんど変わらず、じわじわと弱っていくだけ。子供たちは時間がゆっくり流れていくのだろうけれど、「絶対時間」の中での変化が急激で、両者の間にはタイムスプリットというか、時間の壁(溝?)のようなものがあるんだろう。
同じ空間で話をしているのに、人生の中での意味合いがまったく違ってくる。
僕が死んだ後、大人になった彼らの中には「近所にいた変な人」の記憶はほとんど残っていないだろう。
だから、作品という「形」として残しておきたいと思うのかな。まあ、そういうことも煩悩なんだろうと悟ってからは、作品を作ることの意味を考えることもなくなった。
そう。すべて自分の欲のため……。
↑最近いちばん満足しているのはこれかな。何も考えずにぱらぱらっと打ち込んだベースのフレーズが時間と共に頭の中で熟成されるというか、ずっと残っていて、ときどき脳内再生される。
あ~ちゃん、ガレージバンドでこういうことができるって分かるかなあ。「できる」というより、自分の中に新しい世界を生み出せる、とでもいうか……。
若いときは分からないのよね。「できる」ようになることだけで精一杯で、その「できる」の向こう側に生まれるものを味わう余裕がない。
自分がそうだった。今思い返すと、惜しいことがいっぱいある。
音楽における僕の今の孤独は、若いときに犯した罪の報い。罪が大きければ大きいほど孤独も深い。だから、しっかり受け止めて、もう少しこの孤独とつき合ってみるか。