仁科弾正をググってみると、
⇒ここに詳しく説明されていた。
盛忠は、元弘三年(1333)鎌倉幕府滅亡に殉じた関日向守盛長の子といい、旧縁を頼って仁科郷に移り住み、のちに仁科城主原信濃守源義隆の婿となり、文和二年(1353)仁科家の譲りを受けて仁科弾正少弼を称し、仁科の領主となったものだと『飯砂山仁科系図』に記されている。ここに至って、仁科氏が源平双方の氏を持つことになったという。(播磨屋WEBサイトより)
「高士」というのは、「世間から離れて住んでいる、りっぱな人物。隠君子」の意味だそうで、我こそは仁科弾正の流れを汲む十一代当主である、という宣言なのだろうか。
いろいろと謎の多い神社で、郷土史的に掘り起こしていけばとても面白そうだ。
それにしても入口のはじめ狛犬はどうなったのだろうか。明らかにこの天保期の狛犬よりは古いものだったはずだ。盗まれたのではなく、どこかに保管されているのならいいのだが……。