寝る前、助手さんが「明日はおとうさんの命日ね」と言った。
明日じゃなくて、もう今日だ。日付が変わっているから。
命日が3.11というのは、忘れようがない。タヌの命日は阪神淡路大震災の日(翌年)だし……。
親父が息を引き取ったときは、3.11という特別な日に旅立つというのはすごいな、と思ったのだが、時間が経って、改めて考えてみると、同じ命日の人たちがいっぱいいるということなのだな。
反省なき「復興」と同調圧力
今年は3.11から10年ということで、テレビ各局が数日前からいろいろな特番や特集を流している。
改めて原発関連の最新情報などを確認していた。
大川小学校の「事件」については知っていたが、今年は改めていろいろ調べてみて、とんでもなかったんだなあという思いを強くした。
例えば
⇒この記事。
この記事でドキッとしたのはこの部分。校庭で整列している児童たちのところに娘を迎えに行った母親の証言。
駆け寄ってきた娘に「どうする? みんなと一緒に待つ?」と尋ねると「怖いから帰りたい」と答え、一緒に車に乗り込んだ。
↑ 「一人だけ先に親と一緒に帰るのはみんなに悪いから、一緒にここにいるか」という確認……。
これこそ日本における同調圧力の怖さと根深さだろう。
「裏山に登ろう」と訴えた子供は教師から「静かにしろ」と怒られ、たまらず山に向かって走り出した子供は「戻れ!」と命じられ、戻ったという。……やりきれない。
河北新報が膨大な取材記事を残している。
また、堀潤氏がハンディカメラ1台で取材の模様をYouTubeにUPしている↓
↑これの43分あたり、「県外の教育委員会は来るけれど、県内は絶対に来ない。特に地元の教育界の人たちは来ない。それじゃ子供たちを守れないでしょ。いちばん声を大にして言わなければいけない人たち、子供たちといちばん長く一緒にいる人たちが口を閉ざす」……という絞り出すような訴え。
最後48分あたりでは「スクールバスがずっと待機していた。バス会社の人は無線で(バスの運転手に)子供たちをのせてすぐに峠に逃げろ」と伝えていたって、当時はしていたんだけれど、今は口をつぐんで言わない。俺たちは市から仕事もらっているから言えない、と」いう話も。
そのバスの運転手は、他の運転手からの「早く子供たちを乗せて峠へ走れ」という無線に「学校側の命令があるまで勝手には動けないよ」と答えていた。そして、その運転手も一緒に死んでしまった。
これら検証記事や証言によって、当時の状況は大体分かってきた。最悪の事態にしてしまったキーマンは区長と教頭だったようだ。
一人生き残った教務主任は、大川小の前に赴任していた学校では校長と一緒に避難マニュアルを作り上げ、裏山の神社に逃げる訓練とかも率先してしていたという。
その小学校は大川小よりずっと海に近くて、校舎は完全に水没したけれど、生徒たちは全員裏山に避難して無事だったとか。それで、親からは「うちの子が助かったのはあの先生のおかげ」と感謝されている。
それだけに、大川小で子供たちが目の前で死んでしまったことはものすごいトラウマになっているだろう。
現場にいなければ分からない空気感、微妙な要素、タイミングとか……いろいろあるだろうな、とは思う。
一人一人の心の中は分からないし、自分がそのときそこにいたらどうしていたのかも、自信はない。
川内村では、テレビで1F爆発シーンを見た直後「逃げるぞ!」と言って避難したけれど、戻ったときは隣家の娘さん(同年代)から「あんたたち、逃げるの早かったね~」と嫌みっぽく言われた。
でも、逃げるのも早かったけれど、戻るのも早かったのだよ。
空っぽになった村で、真剣に、これからどうしたら村が新しい価値観のもとで再出発できるだろうかと、村に戻ってきた移住者仲間たちと話し合ったりしていた。
どちらも間違いではなかったと、それはそれで今でも思っているけれど……。
まあ、あれからの10年で、とことんがっかりさせられ続けたことは確かだ。
今年のテレビの特番にしても、去年までの「おざなり感」よりは少しはちゃんとしているものもあるが、やはり「免罪符」的にやっているような番組が多い。
「復興」だの「絆」だのという言葉が大安売り状態になる日。
暖かく、風もなかったので、バルコニーに出てギターを弾いていたら、遠くで何か声がしたかと思うと、ものすごい音量のサイレンが長く響き渡った。
すぐには追悼のサイレンだとは気づかなかった。
ああ、そうか……と気づいたが、親父のことを思いながらそのままギターを弾いていた。
親父は『Orca's Song』を聴きながら息を引き取ったんだよなあ……と思い出しながら。
仕事机に戻ってきたら……これだよ↓。

のぼる!
おまえは拾ったときは手のひらにのっかるくらい小さかったけど、そのときからすぐに机にのぼってきたよなあ。それで「のぼる」になったわけだが……。
……ああ、こういうのが、生きている、ってことなんだな、と改めて思った。
気持ちを新たに、原稿の続きを書く。
「反省なき復興などありえない」という内容のミニコラム。
少しだけ心残り
親父が息を引き取ったとき、私はほとんど無言で見つめているだけだった。
今はそのことを少し後悔している。
親父は死ぬことをとても怖がっていた。だから、私も死について口にすることは避けていたのだけれど、今思えば、少しでも脳が動いているときに語ってあげればよかった。
光は見られているときと見られていないときでは動きが違うという不思議。
「量子のレベルまで小さくなると、俺たちが認識しているこの物質世界の法則では理解不能なことが起きるんだよ。だから、肉体は面倒くさいけど、原子のレベルまでバラバラになったら、俺たちがこの世で常識だと思ってきたことを超越した世界に戻っていき、また楽しいことが起きるかもしれないよ」……というような話を。
それに近いことを話したことが一度あった。認知症がだいぶ進んでいたけれど、親父は短く「そうか」と答えただけだった。深く考える力がもう残っていないようだった。
だから、それ以上は話さなかったのだが、聞いていようがいまいが、もっと時間をかけて、真面目に話してもよかったかもしれない。
でもまあ、やれることはやれた……と思いたい。

「ヘ池」のメダカは氷の下で無事越冬できたようだ。他の池ではまだ確認できない。