一つ前の日記へ一つ前 |  目次   | 次へ次の日記へ

のぼみ~日記 2021

2021/12/05

仙波東照宮の狛犬

さてと、これがお目当ての狛犬。
この狛犬は元々は江戸城内にあった。

徳川家康は元和2(1616)年4月17日(6月1日)駿府で没した。遺言に従って遺骸は久能山に埋葬された後、一周忌が過ぎた元和3年(1617) 3月15日、日光へ移葬されたが、その道中の3月23~26日、天海僧正によって喜多院で4日間の法要が営まれた。
翌年の元和4(1618)年、徳川二代将軍・秀忠により、江戸城の構内にある紅葉山に家康を祀る東照社が建てられ、元和8(1622)年には天主台の下にも本丸東照社が建てられた。
その後、家光により日光東照宮の大造替に合わせて寛永12(1635)年に本丸東照社は廃されて浅草寺に遷され、代わりに二の丸東照社が作られ、寛永14(1637)年に本格造営が完成した。
この狛犬はそのときに二の丸東照社に奉納されたと考えられるのだ。

一方、川越では、寛永10年(1633)11月16日、喜多院に隣接してこの仙波東照社が創建され、喜多院大堂にあった家康の像が遷祀された。同年12月24日には後水尾天皇より「東照大権現」の勅額が下賜される。
しかし、寛永15(1638)年1月28日、川越大火災が起こり、巻き込まれる形で社殿が焼失。家光はただちに再建工事を命じ、寛永17(1640)年5月に現在の社殿が竣工した。

久能山でも、家康が没した直後の元和2(1616)年5月に東照社が着工され、翌元和3年12月に創建している。

その後、正保2(1645)年、各東照社に宮号が宣下され、「東照宮」になった。

承応3(1654)年、江戸城内の二の丸東照宮は修造された紅葉山東照宮に合祀され、旧社殿は川越に移築された。残された狛犬は明暦2(1656)年、手水鉢と一緒に、江戸城からこの仙波東照宮に移された。

……という流れで、江戸城生まれのこの狛犬は、現在、ここ川越にいるわけだ。

狛犬台座には「献上 根来出雲守」とあり(現在はほとんど読めない)、年号は刻まれていないが、一緒に運ばれてきた手水鉢には「御本城御社御寶前 寛永十四丁丑暦九月十七日 奉献上 御手水鉢 佐久間右近将監 藤原朝臣真勝」という銘が残っている。
「根来出雲守」は、江戸城の本丸東照社と二の丸東照社を普請したときの責任者である根来盛正(1591-1654)のこと。
「佐久間右近将監」は茶人としても知られる作事奉行・佐久間実勝(1570-1642)。
つまり、二の丸東照社建立と同時に奉納されたとすれば、この狛犬は寛永14(1637)年前後の生まれと推定できるのだ。

狛犬と同時期に作られた手水鉢

ということは、日光東照宮奥宮の狛犬より古いのだ。
日光東照宮の大造替は寛永13(1636)年竣工ということで、現在奥の院参道途中に置かれている石造狛犬もそのときに置かれたものだという認識が広まっているが、そうではない。
奥宮は最初は木造で、寛永18(1641)年に石造に改められ、さらに地震により倒壊した後、天和3(1683)年に現在の鋳銅製に改められた(日光市公式WEBサイト文化庁国指定重要文化財等データベースなどによる)。 石の宝塔に造り替えられた寛永18(1641)年7月に幕府の作業方大棟梁・平内大隅正信の設計による石の唐門も完成。その唐門は天和3(1683)年に銅製鋳抜門に建て替えられた際に解体されて裏山に埋められていたが、昭和42(1967)年、宝物館脇に復旧再建されている。
この石の唐門は現在の銅製鋳抜門と構造が酷似していている。
↑現在見られる銅製の唐門(鋳抜門)と当初の石造の唐門。デザインはほぼ同じ。

銅製唐門(通称「鋳抜門」)の前に立派な銅製の狛犬が置かれていることを考えると、石造狛犬も石の唐門前に置かれていたと考えるのが自然だろう。実際、狛犬を設置できるスペースもある。
ということは、日光東照宮の石の狛犬の建立は早くても寛永18(1641)年であり、江戸城二の丸東照社に置かれた狛犬よりも後に作られたことになる。

また、日光東照宮奥宮の狛犬は、徳川将軍しか入れなかった場所のため、諸大名でさえ見ることはできなかったのに対して、江戸城二の丸東照宮の狛犬は仙波東照宮に移された後は多くの人たちの目に触れるようになったと思われる。

ちなみに家康の遺骸が最初に葬られた久能山東照宮にも正保4(1647)年、家康の命日の4月17日に、林丹波守勝正が奉納した狛犬がいるのだが、破損がひどく、ひっそりと隠居生活を送っている。
久能山東照宮の狛犬は享和3(1803)年と天保4(1833)年に作り直されており、天保4(1833)年のリメイク狛犬のうち1体がきれいな状態で残っているのだが、初代とはだいぶ趣が変わっている。

つまり、徳川家ゆかりの狛犬としては、この仙波東照宮の狛犬こそが最も古く、狛犬史においても重要な位置を占める狛犬なのだ。

……と、説明が長くなったが、この貴重な狛犬をじっくり見ていこう。

大きさはこんな感じ。拝殿前に向かい合わせに置かれている。



阿像



阿像は大きく口をあけ、歯や舌も細かく刻まれている。



頭にある突起はおそらく耳なのだろう。頭上に陥没があるが、宝珠型狛犬の登場はもっとずっと後だと思うので、宝珠が取れたとは考えづらい。後に凹みがつけられたのではないだろうか。


鬣はきれいに真ん中分けでヶ崎が大きな巻き毛の玉になっている。尾は比較的シンプルで、日光東照宮奥宮の狛犬に似ている。



真横からのフォルムもバランスよく、きれい。



足も太くてしっかりしており、爪先の上には羽状の刻みもある。走り毛的な装飾か。


吽像を見てみよう。頭には平べったいが突起が認められ、これはおそらく角のつもりだろう。獅子・狛犬の区別が残っているということか。


結んだ口からはみ出ている牙状の歯。





巻き毛の先端処理が太くて、公家狛犬よりも力強さを感じる。

ここでひとつ疑問がわいた。阿像の頭にある凹みは、もしかして当初は吽像と同じように突起があったものを、後から削ったという可能性はないだろうか。獅子・狛犬という明確な区別意識が薄くて、どちらも頭に宝珠的な飾りをつけておけばいいと思ったものの、後に、公家狛犬の角なしの獅子・角ありの狛犬というルールを知って、阿像のほうの飾りを削った……とか……。
日吉神社の狛犬は阿像吽像ともに頭は平べったくて、吽像のみにわずかな突起が認められる。これが角という意識なのかどうか分からないくらいわずかな突起なのだが、阿像と吽像で変えていることは確かだ。
籠神社の狛犬は明らかに吽像には角と思える突起がある。
大宝神社の木造狛犬はどちらにも角はない。
岐阜市伊奈波神社の狛犬(天正4=1576年の銘あり)や岐阜県各務原市手力雄神社の狛犬(天正9=1581年の銘あり)には阿像吽像ともに角状の突起がある。
どうも、石造の武家狛犬発祥の1500年代には、公家狛犬の「角なしの獅子と角ありの狛犬」という認識は薄れていて、かなりいい加減になっていたのではないだろうか。

顔と身体がほぼ同じ造形でも、尾は阿像吽像で形を意識的に変えている場合が多い。この狛犬はどうだろうか。

吽像の尾のほうが少しだけ細い?


う~ん、気分の問題という気がしないでもないが、阿像の尾のほうが広めで装飾も多いかなあ。



顔はほぼ同じだが……


……というわけで、阿像の頭のわずかな凹みの謎は残るが、徳川家ゆかりのいちばん古い「武家狛犬」であることは間違いないだろう。
日光東照宮の本殿と石の間には木造狛犬があるが(普段は見られない)、どちらも完全な公家狛犬のコピーであり、寛永13(1636)年の大造替の際に置かれたものだとしても、公家文化を真似たコピー狛犬である、という意味では、武家狛犬ではない。
その意味では、徳川家が江戸城内に置いた最初の石造武家狛犬であるという点で、この狛犬のほうが文化財的な価値は高いと思う。
日光東照宮奥の院参道の狛犬は国の重要文化財に指定されているので、兄貴分にあたると思われるこちらの狛犬も、ぜひ国指定重要文化財に格上げしてほしいものだ。

           

日本の狛犬史を新しい視点で俯瞰していく試み。
新・狛犬学
B6判・152ページ・フルカラー写真が500点以上!
1780円(税別、送料別)

Amazonで購入でもご購入いただけます。⇒こちら

ご案内ページは⇒こちら


タヌパックブックス
狛犬、彫刻屋台、未発表小説、ドキュメント……他では決して手に入らない本は⇒こちらで

★Amazonでも購入できます⇒Amazonで購入こちら

更新が分かるように、最新更新情報をこちらの更新記録ページに極力置くようにしました●⇒最新更新情報
    Twitter   LINE


一つ前の日記へ一つ前 |  目次  | 次へ次の日記へ


Kindle Booksbooks    たくきの音楽(MP3)music    目次へ目次    takuki.com homeHOME


Google
nikko.us を検索 tanupack.com を検索