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のぼみ~日記 2022

2022/09/30

日光東照宮旧奥の院唐門

先週の23日、北海道で家族と一緒に農業に携わりながら大学院博士課程でロシア文学の研究をしている、という男性からメールが届いた。
父親は自身のブログでたびたび私の本やこの日記の文章を引用していて、彼自身も私のツイッターアカウントをフォローしているという。
30日から日光に行く予定を立てたので、会ってもらえないかという内容のメールだった。
突然のことだったので最初は??となったのだが、若い人が自分から会いたいなどと言ってくることはまずないことなので、会ってみることにした。
すでに日光駅前のホテルに2泊予約しているそうで、じゃあ、土日を避けて30日の午後にでも……ということになった。

風もなく、雲一つない快晴。最初は公共施設の外のベンチに並んで、持参したペットボトルのお茶を飲みながら座って話をしていたのだが、いつまでもそれではつまらないだろうということで、東照宮に連れて行った。
といっても、東照宮の拝観を本気ですると日が暮れてしまうし、拝観料も高いので、私の勝手で、前から気になっていた旧奥社石の唐門に直行。

観光客のほとんどがまだマスクをつけたまま歩いていた。特に可哀想なのは子供たちで、学校の遠足かなにかで訪れている集団に何組か出会ったが、小学生低学年くらいの子供たち全員がしっかりマスクをさせられていた
目的の旧奥社石の鳥居と唐門の場所に到着。
これはそもそもどういうものかというと……、
……というもの。
家康は元和2(1616)年4月、自らの死期が目前だと悟り、病床に本多正純、南光坊天海、金地院崇伝を呼び寄せて死後の処置について遺言を残している。
一両日以前、本上州(本多正純)、南光坊(天海)、拙老(崇伝)、御前ヘ被仰召、被仰置候ハバ、御体をは久能ヘ納、御祭礼をハ増上寺にて申付、御位牌をは三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為る成との御意候
(崇伝の日記「本光国師日記」より)

家康は自分が死んだ後も国の平安を見守るために、江戸から見て北極星を背負った日光山の地に埋葬されて鎮守となる、と言い残したわけだ。
そのために派手な寺社などは必要ないので「小き堂をたて」と言っている。
しかし、三代将軍家光は家康を崇拝していたので、その威光を世に知らしめるためにど派手な建造物を築いた。これは家康にしてみればまったく本意ではなかっただろう。

寛永13(1636)年の大造替では工事は奥の院前の鳥居のところまでしか進まず、狛研の山田敏春さんの調査研究によれば、そこから先は5年後にようやく建て直しが完成した。
寛永十七年八月六日(1640)松平正綱と秋本泰朝に奥の院の造営奉行を命ぜられる。
宝塔・唐門の設計は大工棟梁平内正信、石工棟梁は石屋又蔵と懸五郎作である。
なお設計者の平内正信は鹿島神宮と大国魂神社の木彫狛犬の作者でもある。
赤薙山(あかなぎさん)より六千人の人夫により厚さ一丈余り(約3m)、四方一丈九尺(約5.8m)の巨石を引き出した。
寛永十八年七月二十四日、三録緑山増上寺にて家光が笠石を新宮に引き付けたと語り、翌二十五日に経十六尺(約4.9m)の笠石が乗せられて宝塔は完成。
かくして寛永十八年(1641)九月、奥の院宝塔と唐門が完成、九月十七日に正遷宮が行われた。
狛犬の杜WEBサイト「日光東照宮~奥の院唐門の狛犬」より)

現在、奥の院への長い石段参道の最後のほうに置かれている石造狛犬は、このときに石の唐門とセットで奉納されただろうから、時期は寛永18年10月から19年の4月あたりであろう、というのが山田さんの見立てだ。

↑↓現在、奥の院参道の途中に置かれている石造狛犬


……と、ここまでは記録が残っているらしいのだが、狛犬が何年何月に奉納されたかという記録はないらしい。
それで、寛永の大造替が一応完成した寛永13(1636)年の奉納のように解説しているものが多いのだが、奥の院の石の唐門より先に奉納されたと考えるのはあまりにも不自然だ。
狛犬は、阿像に「松平右衛門太夫源朝臣正綱」、吽像に「秋本但馬守藤原朝臣泰朝」の銘があり、奥の院の造替を命じられた二人が1体ずつ奉納しているので、狛犬の奉納年は寛永13(1636)年ではなく寛永18(1641)年以降であることはほぼ間違いない。

つまり、この狛犬は銘が残る東日本(正確には「江戸以北」)最古の石造狛犬ではなく、江戸城二の丸東照社(寛永14年に本格造営が完成)に奉納された石造狛犬のほうが少し古いと思われる。
↑元は江戸城二の丸東照社に奉納されていたが、現在は川越の仙波東照宮にある狛犬。推定寛永14(1637)年製作。造形からしてもこちらのほうが日光東照宮の狛犬より古いだろう

さて、慶安3(1650)年に石造りの宝塔や唐門に代わって青銅製の立派なものが再建された↓。これが現在奥社前にあるもので、棟梁は椎名伊豫。
古い鳥居や唐門は解体されて西側の山中に埋められた。
それを昭和42(1967)年に東照宮宝物館が改築された際に掘り起こされて、宝物館脇に復元再建された。

……というのだが、細かいところでいろいろな説が食い違っている。
例えば、石の宝塔と唐門は「天和三年の大地震で倒壊し、銅製で再建されたあとは解体されたまま置かれていた(文化遺産データベース)」とあるが、天和3年は1683年で、青銅製の現在の唐門が完成した慶安3(1650)年より30年以上後ということになり、「地震で倒壊したので銅製で再建された」というのはおかしい。
どうやら慶安3(1650)年に銅製に作りかえられたのは鳥居と唐門だけで、宝塔は石のままだった。石の鳥居と唐門は壊れたわけではなかったのできれいに解体されて西側の山中に埋められた。残っていた石の宝塔が元和3(1617)年の大地震で倒壊し、銅製に作りかえられた……ということらしい。石の宝塔は倒壊した際に破損したので処分されたのだろうか。

そんな石の唐門と石鳥居をきちんと確認しておきたかったのだった。

これらは旧宝物館横に移設されたのだが、宝物館はだいぶ前に移転して、今は建物は閉鎖されているため、誰も訪れることはない。
周囲も草ボウボウで、石の隙間からも草が生えているという状態。

↑だ~~~れもいない

↑案内看板。これによると「元和7(1621)年頃に木造多宝塔、唐門、拝殿、鳥居などが建てられ、その20年後に宝塔と共に唐門・鳥居が石造に改められた」とあるが、その通りだとすると、木造の拝殿や多宝塔、唐門などは家康が改葬された元和3(1617)年の4年後に建てられたことになる。日光市WEBサイトの「旧日光市歴史年表」によれば、「1622(元和8)年4月、奥院宝塔と石垣の造営が竣工」とある。
「慶安年中(1648-1652)に銅製のものに建て替えられた際に奥社西側の山中に埋められた」ともあり、地震で倒壊したという話はない。

1641年の鳥居。約280年前のもので国の重要文化財指定なのだが、素っ気なく建っている

その先に再建された石の唐門が現れる。これまたとても国の重文とは思えない素っ気なさで存在する

大きさが分かるように……
この唐門は、高さ約3m、屋根石は巾2.3m×長さ4.2m、重さ9t、扉は高さ1.8m×巾1m、厚さ13cm(2枚)、唐門の総重量約17tだそうだ。
さて、この唐門の前に石造狛犬も置かれていたのか? というのが今回確かめたかったこと。


現在の銅製唐門と狛犬の配置からして、置かれていたならこのスペースだと思うのだが……


大きさが分かるようにペットボトルを置いてみた
ペットボトル約2本半(55cm)の奥行きしかない

パッと見た感じでも「ここにあの狛犬を設置するのは無理だなあ」と感じた。

奥社の石造狛犬の台座は明らかに奥行き60cmを越えている




ということは、奥社の狛犬が唐門や鳥居とセットで設置されていたとしても、唐門のこのスペースに置かれたわけではない。
唐門の前に台座を別に設けて置いたか、鳥居と唐門の間、鳥居の前などに置かれていたのだろう。

↑これははみ出してしまうのでありえず……

↑これに近かったのかのかな、と想像できる

いずれにしても、前脚に松平臣正綱と秋本泰朝の銘が刻まれている以上、寛永18(1641)年以降の作であることは間違いない。
狛犬は極めて立派な出来なので、鳥居や唐門より後に完成して、追加で設置されたのかもしれない。
つまり、仙波東照宮の狛犬こそが「建立年が正確に推定できる江戸以北(ヽヽヽヽ)最古の石造狛犬とも言われる」ということでいいんじゃないだろうか。
仙波東照宮の狛犬より前の石造武家狛犬は、越前禿型狛犬の系譜で、越前狛犬の形状を模しているが、仙波東照宮の狛犬はそれとは明らかに違う。これが「オリジナルな石造武家狛犬」の祖で、日光東照宮の石造狛犬はその流れを継いだ最高傑作といえそうだ。
石造武家狛犬というジャンルがあるとすれば、これ以降はあまり出現せず、大名らが神社に奉納する石造物は石灯籠が中心になっていった。
そうした狛犬史を考えても、日光東照宮の石造狛犬が持つ孤高の気品が光るのだよなあ……。

さて、せっかく誰もいないので(^^;;、草ボウボウの中、唐門の裏側にも回ってみた。

門の裏側。質素というか、陽明門などのど派手さとは違う世界



山田敏春さんによれば、宝塔に使われた石材は赤薙山(あかなぎさん)り6000人の人夫を動員して切りだしたに厚さ一丈余り(約3m)、四方一丈九尺(約5.8m)の巨石だという。この唐門の石材も同じものだろうか




徳川家の葵の紋と仏教の法輪とが共存している

明治になるまでは神仏混淆があたりまえだったので、「神」になった家康を祀る「お宮」に仏教彫刻や仏具があるのは不思議ではないのだが、観光客でごった返す陽明門や神厩舎(三猿の)周辺と、誰一人訪れることもなく草ボウボウのこの石の唐門の格差といい、東照宮という場所はいろんな意味でカオスだなあと思う。
↑ちなみにこれは現在の奥社宝塔前にある三具足(みつぐそく)(香炉、燭台、花立)。寛永20(1643)年に朝鮮国王から献上されたもの。亀の背にのった鶴はクチバシ部分が蝋燭立てになっている。獅子は香炉。 それらがのっているのは前卓(まえじょく)というもので、全部「仏具」
家康が江戸幕府を開くまでは大変な数の人の命が奪われた。そういう戦乱の世に二度としてはならない、と家康は念じながら死んだだろう。
家康がなろうとした「神」は、村々の鎮守様と同じ、民を見守る「守護神」と同類のものであり、西洋の「神」とはまったく違う。
「小さな堂を建て」と遺言しているように、自分の偉業を誇示しようとしたとも思えない。
しかし、孫の家光が途方もない大金と労働力をつぎ込んで作りかえた東照宮は、随所に当時の木彫芸術、建築技術の粋を散りばめながらも、武家社会の貴族文化への憧れや成金趣味、一般大衆向けにPR効果を狙った遊園地的な意図も混入した一種異様な盛り合わせ料理のようなものに変貌してしまい、今に至る。
しかし、それもまた「日本らしさ」なのかもしれない。
小学生の修学旅行先の定番にもなったが、子供にこうした歴史の意味が分かるとは思えない。何かを感じ取れる子がいるとしたら、相当感受性豊かな子だなぁ。ほとんどの子供は、東武動物公園や東武ワールドスクエアに連れて行ったほうが喜ぶだろう。

家康はあの世で「こういうつもりではなかったんだがな」と、渋い顔をしているかもしれない。


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