2024/11/22
ジジババ召集令状来る
赤紙ならぬ青紙が来ちまった。ジジババ召集令状。70年も生きると、こんなのが来るのか……。ふうう。
田舎ではクルマが運転できなくなったら自立した生活ができなくなる。
最短距離の教習所に電話して予約したが、最短で来年2月だって。3か月先。「その日の次はいつですか」と訊くと、1週間後だという。毎日やっているわけではないとのこと。都会だとどうなんだろうね。若い人が免許を取らなくなり、そのうち自動車教習所の仕事の半分くらいが高齢者講習になったりして?
講習料8000円と黒いボールペンを持参せよ、とのこと。
8000円は高いなぁ、と思って調べたら、免許センターだと6450円らしい。教習所だと教習所が料金を決めるのでまちまちらしい。
74歳以下だと認知症検査はない。いわゆるテストというものはないらしい。だから合否もない。よほどダメそうな人でも、「ここはこうしましょう」とアドバイスを受けるだけだとか。
要するに、講習を受けました、という証明書をもらわないと免許の更新ができない、ということ。
なんにせよ面倒だ。
70年生きるということ
『新・狛犬学』の英訳本が出版されたので、しばらく放置していた『真・日本史』シリーズの続きに着手した。
1巻、2巻は出したので、今度は3巻目。明治時代だけで1冊にする予定。
少し前に「明治100年」なんて言っていた気がする。明治元年は1868年だから、明治100年は1968年か。あたしは1955年生まれだから13歳だったはず……「少し前」じゃないのか。
歳を取ると東京オリンピックも「少し前」になる。あ、1964年のほうね。アベベが靴を履いてぶっちぎり優勝して、円谷が競技場内でヒートリーに抜かされた大会。
自分が生まれてから70年……。明治元年に生まれた人が70年生きると、1938年になる。
日本は前年の1937年に盧溝橋事件を起こして日中戦争を開始していて、国家総動員法を公布し、1940年東京オリンピック開催権を返上した。帝国主義が歪んだ形で暴走していた時期。
明治元年に生まれた人の70年も確かに凄まじい変化があっただろうけれど、自分が生きてきたこの70年は、生活の変化という面ではもっと激変した時代だった。
生まれたとき、家には風呂はおろか、トイレがなかった。あったのは水道と電気とプロパンガス。
ご飯は鉄釜をガスコンロにかけて炊いていたので、必ずお焦げができた。
あたしはこのお焦げが好きだったのだが、それを知らない父親がお焦げだけ取って犬のクマにあげてしまい、それが悔しくてクマの耳に噛みついたら、クマが怒って噛みつき返してきてワ~ワ~泣いて大騒ぎになった……という一コマを覚えている。自分の脳に残っている最も古い記憶の一つ。
電気を使う炊飯器やトースター、洗濯機を初めて買ったときのことを覚えている。テレビや冷蔵庫はまだなくて、買ったのは小学校入学後だった。
電話なんてもちろんなかった。家に電話が入ったのは中学に入ってからだっただろうか。
中学生の頃、民生用テープレコーダーというものが売られ始めた。それまでは音楽を録音する手段がなかったので、演奏を練習しても録音ができなかった。
初めてテープに自分の声を録音して聴いたときの驚き。え? 俺はこんな声じゃない!! もっときれいな声だ!! なんて性能が悪い機械だと罵ったのだが、一緒に歌っている仲間の声は同じだった。
ビデオはまだ一般家庭には入ってきていなかったと思う。その後は一気に広まって、VHSとベータの戦い。
大学に入った頃だったか、SONYの4トラックマルチ録音ができるオープンリールテープデッキを中古で買った。10万円以上した。それと別のオープンリールデッキを使ってピンポン録音の多重録音をやっていた。
ワープロはまだ普及してなかったから、原稿はすべて手書きだった。
プロの物書きになってからも、まだ家にFAXはなかった。急ぎの原稿のやりとりにはバイク便を使っていた。
FAXがあれば家で原稿が書けるのに……と、最初は毎月何万円ものリース料を払って、FAXを家に入れた。これは結婚後のことだったから20代後半。
ワープロ専用機を経て、パソコンを初めて買ったのはWindows3.1のとき。PS-V VisionというIBMの一体型で、一太郎のDOS-V版で原稿を書き始めた。
ケータイを初めて買ったのはいつだったかなあ。いちばん安いJ-フォンというやつだった。2000年頃だろうか。
……で、今はパソコンですべてをやっている。音楽制作、配信、文章書き、出版……全部パソコンで完結する。家から一歩も外に出ることなく、海外で本が出版できる。
これだけの変化を一生の間に経験できる世代って、我々世代だけではないのかな。
しかも、生活がこれだけ激変してきたのに、この70年で戦争に直接巻き込まれたことがない。これまたものすごい奇跡的な70年だ。
「真・日本史」シリーズを書きながら、そのことを改めて痛感する。
昨日は日露戦争のところを書いていた。その一部を抜粋↓。
凡太: 紡績会社社長の谷口さんでしたっけ。「戦争というのは貿易を進めたくてするものなのだから、できることならなんとか平和に話をまとめてもらいたい」という言葉を思い出します。これだけの人命と国費を使って、日本は貿易の面でもプラスになることがあったんですか。
イシ: いい質問だね! 外務省調査部が昭和11(1936)年にまとめた『日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失』という研究報告書(未定稿。外務省外交史料館所蔵)がある。昭和11年といえば太平洋戦争が始まる5年前だ。満州事変の4年後で日本はすでに満州国を建国していて、2年後に日中戦争を始めてしまうという時期。
この報告書によれば、日本は1894年の日清戦争から1932年の満州国建国までの38年間に、58.2億円使って20.5億円を得たというんだね。
凡太: 30億円近い「赤字」じゃないですか。
イシ: そういうことになるね。だからこの報告書では、
「日清戦争以来の領土的膨張政策の成果は経済的見地からはまったくお話にならない損をしている」「58億円の費用を支出した者は一般納税者であり、21万人の戦傷死者を出したのは忠実なるわが国民であり、この莫大な犠牲によって20億円の利潤を得たのは植民地貿易及び投資に関係する少数の商工業者であった」
……と総括している。
凡太: 戦前の外務省で、そんな報告書をまとめた人がいたんですね。ビックリです。
イシ: まともな官僚なら、当時の日本がどれだけ貧乏くじを引かされてきたかをちゃんと理解していたんだね。なんと馬鹿なことをしているのか、と。それでも歴史は馬鹿な道を突き進んでしまう。
こうした史実から学ばなければならないのは、
政治というものは勝ち負けだの面子だのではなく、冷徹に「実利」と「安定」を計算して行わなければいけない、ということだよ。
欧米列強はこれができた。アメリカは仲介役を引き受けることで、中国進出に後れをとったことを挽回できると踏んでいた。すでに中国を実質上分割統治していたイギリスやフランスに対して「清国に支配領域など作らず、平等に貿易できるように門戸開放しよう」というのがアメリカの立場だったからね。それと、アメリカはこのときフィリピンを手に入れた直後だったから、日本に恩を売ることでフィリピン統治を安定化できるという計算もあった。
ロシアの勢力拡大を阻止したかったイギリスは、日本をロシアと戦わせることでロシアの南下を防ぎ、バルチック艦隊壊滅という予想外のごちそうまで手に入れた。
しかもアメリカもイギリスも、国力を減らすどころか、日本に戦費を貸し付けたことで、この戦争で実質「商売」もできた。
日本だけが莫大な国費を消耗させられ、働き盛りの国民を失うという大貧乏くじを引き受けさせられた、というのが日露戦争の実相じゃないのかな。
イギリスにけしかけられ、アメリカはさらにその背後でほくそ笑む。(ビゴーの風刺画)
ところが、日本ではマスメディアはひたすら戦争を煽り、庶民は「戦争に勝ったのに戦利品がショボすぎる」といって暴れた。大学教授や知識人たちまでが戦争をしろと主張した。
太平洋戦争での国が滅亡しかねないほどの敗戦の後でも、小説家は日本海海戦の勝利をドラマチックに描いて読者を興奮させ、当時世界に名だたるロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに打ちのめした日本海軍はこんなに凄かったんだと美化し、読者たちを興奮させた。
戦争を知るということはそんなことじゃない。どこそこの戦いで誰それが英雄になったとかよりも、その戦争でどれだけの犠牲が出て、その犠牲のおかげでどれだけの不幸が防げたのか、という分析こそが重要なんだ。
この報告書に書いてある通り、「
日清戦争以来の領土的膨張政策の成果は、経済的見地からもまったくお話にならない損をした」というのが厳然たる史実なんじゃないかな。経済的損失だけでなく、人命や国民の生活が犠牲になった。
(略)
歴史にIFは意味がないなんてよく言うけれど、それは詭弁だな。常にIFがあって、その選択をうまくやっていけたかどうかの結果が歴史なんだ。
私は単純に戦争は悪だとか言いたいわけじゃない。
馬鹿な戦争をしたがる馬鹿は政治や教育の場からは退場しろ、と言いたいんだ。
日露戦争の勝ったんだか負けたんだか分からないという結果は、その後の日本にいい影響を及ぼしたとは思えない。多大な国費とマンパワーという大切な国力を失った一方で、大国ロシアの軍隊を打ち負かしたという自信だけは「この屈辱は絶対に晴らしてやるぞ」みたいな歪曲した形で残り、その後の対外政策をどんどん誤らせていったんじゃないかな。
……とまあ、こんな本を書きながら迎える人生70年目の終わりなのだった。
自主的な「高齢者講習」ですな。