「それは間違っている」「こうするのが正しい」と論じることはできますし、そうした議論は続けなければなりません。私自身、人生の中で、いくら虚しくなってもそうした努力を続けてきたつもりです。外に対してだけでなく、何よりも自分に対して。
ただ、今の社会の急激な変動ぶりを見ていると、正論を主張するよりも、まずは「生き残る」ことが先決だという気持ちが強くなってきました。
世界が人口減少と完全統制の方向に進んでいることは間違いないことです。
人口が減っていくことはどのみち避けられません。地球という環境が固定された一定の規模のものである以上、そこに生きる生物にも適正規模というものがあります。
どんな原因によるものであれ、世界人口が増加から減少に転じることは避けられません。
マイナス成長する社会の中でも幸福を感じられるような生活、価値観へと、徐々に切り替えていかないと、苦しみだけが増大していきます。
人口減少を受け入れ、適正規模での社会を構築していくことは仕方のないことだと思いますが、もう一つの「完全統制された世界」はどうしても受け入れられません。
世界を自分の思うように管理したいと思う者にとって「いろいろな人間」が存在することは支配の効率を下げます。誰もが命令通りに動けば都合がいいので、そういう社会を作ろうとします。その際、支配者層以外の人間は使い捨ての道具と見なされます。
歴史を振り返れば、権力者が庶民を疲弊させて大量の餓死者を出したり(例・ソ連のホロドモール、中国の大躍進政策、太平洋戦争での日本軍の無謀な戦術による兵士の大量餓死・病死)、特定の人種を世界から抹消しようとする試み(例・ナチスによるホロコーストや白人至上主義による優生思想)は何度も繰り返されてきました。
現代ではもっとずっと巧妙かつ効率的なやり方で、富と権力の一極集中、庶民の完全管理が世界全体で進められています。
本書の「はじめに」でも少しだけ触れた「グレート・リセット」をはじめ、「ニュー・ワールド・オーダー」だの「アジェンダ○○」だの「コモンパス」だの、様々な言葉が怪しく入り乱れていますが、その裏には、デジタル技術による個人情報の一元化を進め、完全統制された世界政府のような秩序を作るという意図が透けて見えます。
この流れに対しては、私は死ぬまで抗うでしょう。人間が工業製品のように完全管理される世界になったら、生きている意味を感じることができませんから。
漫才コンビ「錦鯉」のネタに「町の治安を守る」というのがあります。その中で、「治安を守る」と宣言するボケ役(長谷川雅紀)が「あ! セーラー服を着た爺さんがいる!」と叫んでいるのを、ツッコミ役(渡辺隆)が「それは別にいいだろ。ほっといてやれよ。そういう人もいるだろ」と諫める場面があるのですが、私はこの「それは別にいいだろ」「そういう人もいるだろ」の精神こそが大切だと思うのです。
つい数十年前、一般市民は国が指定した国民服を着なければならないという社会がありました。あの世界に戻りたい人はいないでしょうが、今のマスク社会を見ていると、何も変わっていないのかもしれないと感じます。
自分にとって何が大切か、何に楽しさを感じ、興味を持てるかは人それぞれであり、違っているからこそ世の中は様々な発見に溢れ、バランスも取れます。
思考や主義主張の対立は何も生み出さないだけでなく、生産効率や健康寿命も悪化させます。「こうするのが正しい!」ではなく、「いろんな人がいるなあ」というマイルドな構え方で生きる人たちが多数派を占める社会のほうが、結局は強いのではないでしょうか。
特に日本人は、そうした柔らかで許容力のある姿勢を最後まで失わないことによって、しぶとく生き延びる道を見つけるかもしれません。
多くの痛手を受けながらも、日本という国全体が、なんとかマイルド・サバイバーになって、最終的に軟着陸してほしいと願っています。//
(『マイルド・サバイバー』あとがき より抜粋)
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