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のぼみ~日記 2025

2025/03/31

AIディストピア

前々回の日記の最後にちょこっと書いた「AIディストピア」という問題について、改めて書いてみたい。

AIの進化、進出と、それによる社会の変化という問題は何年も前から論じられていたが、正直なところ、それほど深刻に考えていなかった。
しかし、今年になってから、最新の文章生成AI Grokと「会話」してみたり、スマホを買い換えて、その内蔵カメラがAIで背景を自動的にぼかす処理をしていることを知ったりしたことで、これはとんでもない社会になってきたぞと、問題意識を新たにした。

「知的職業」とされるジャンルほどAIに代替される

少し前までは、AIとロボット技術の進化により、肉体労働の多くが機械に代替され、失業者が増えるというようなことが論じられていた。
タクシー、バス、電車などの公共交通機関の運転手。工事現場の作業員。運送業者。兵士。各種店舗の店員。介護職。……そうした職種の人たちが将来失業するだろうと。
しかし、ここ数年で急速に進化したAIの仕事っぷりを見ていると、そうではないことがはっきりしてきた。
AIによってまっ先に職を奪われるのは、事務職、教員、翻訳者、ライター、イラストレーター、作詞・作曲・編曲家、医師、アナウンサーなど、本来は知的労働や特殊な才能・技術を持った職種と見なされていたジャンルだろう。
生成AIの登場・進化によって、すでに事務系やライター、イラストレーターなどは存在意義を失いつつある。「こういうデータをこういう形でまとめて、その傾向を分析して」「こんなテーマで人が感動するような文章を作文して」「こんな感じの絵を描いて」「こんな感じの曲を作って」という要求に対して、各種生成AIはあっという間に応えてくれる。
効率という面では、すでに人間はAIにかなわない。

残された課題は「自然さ」とか「センス」とか、コンピュータが判断しにくそうな部分での「調整機能」だろうが、Grokと会話してみて、すでにそういう部分でも、Grokは並みのライターよりはるかに優れていると実感できて、戦慄を覚えた。
英語ベースのAIのはずなのに、日本語での問いかけやツッコミに、瞬時に自然な日本語で返してくる。
この時点で、翻訳者などはすでに失業を余儀なくされている。
少し前までは、Google翻訳が一部滅茶苦茶な翻訳をしてお笑いの種にされていたりしたが、DeepLという高性能な翻訳ソフトが登場して誰もが無料で使えるようになり、ChatGPTという、単なる文章生成だけではないAIが登場し、それを超える自然さと「知識」を兼ね備えたGrokのようなものも登場した。
Grokと一度向き合ってみただけでも、もはやこれより質の悪い教師はごまんといるな、と思った。
知識や技術を教えるというだけでなく、悩み相談、進路相談など、本来、人間対人間の醍醐味のような場面においてさえ、Grokのほうが適確・適切に相手をしてくれるんじゃないかとさえ思えた。

小説家や作曲家、画家といった芸術ジャンルにおいても、すでにAIによる侵食が始まっている。
AIが作った小説などに深い感動があるはずはない、と反論するかたが多いだろうが、では「感動」とは何だろうか。

AIにとって、「質が高い作品」「芸術性の高い作品」「いい作品」という価値観はない。しかし、統計的に「売れる」作品の傾向は正確に把握できる。そうした作品ばかり与えられた人々は、いつしか感性もAIに支配され、AIが与える作品(小説、漫画、音楽、映像……)を欲するように訓練される
これは今すでに起きていることだ。

出版社は、売れる作品を出版して儲けるための企業である。AIが作った「こうすればウケる、感動させられる、興味を引く」と計算尽くの作品を多くの人たちが買うのであれば、それが出版社にとって「よい作品」になる。
かつては「たくさん売れそうだから」ではなく、出版人が「これは出版する意義がある」と思う本を出版する、という「余地」があった。
「本当に出したい本を出すために、つまらなくても売れる本を我慢してたくさん作っている」と吐露する編集者もいた。
そこにこそ出版という仕事の意義があるからだという信念を持った人たちが何人もいた。
今は出版業が追い詰められていて、そういう「余地」さえない。
芸術、芸能ジャンル(正確には娯楽ビジネス全般)はこうしてAIの支配下に入っていく。
これは長い間かけて築き上げてきた人間の文化が、あるレベルに固定され、進化を止めてしまうということを意味している。

人間を使ったほうが安上がりな仕事は残る

一方、少し前までは「AIに仕事を奪われる」といわれていたドライバーや介護職などは、最後まで「人間がやらないと駄目」な仕事として残るだろう。

医師はAIで代替できるかもしれないが、看護師はできない。
医師の中でも、外科医や歯科医はある程度生き残るが、内科医や精神科医は淘汰される。
数学や国語の教師はAIで代替できるかもしれないが、体育教師や養護教師はできない。
配送センター内の仕分け仕事はAIとロボットに代替されるが、末端の配送員は生き残る。

分かりやすく言えば、人間という肉体を使って直接相手と接する仕事は、機械では代替できない。無理にやろうとしても、金がかかりすぎて経済的に合わない
言い換えれば「人間を使ったほうが安上がりできめ細かなサービスができる仕事」は生き残る
ドローンや自動配送ロボットを使っても到達できない場所に荷物を運ぶことを考えてみればいい。そのためのインフラを整備するよりも、人間が配達したほうが早いし、ずっと安上がりだ。
身体が動かなくなった病人や老人と接するのがロボットなら、看病、介護される側の人間は、生き続ける気力を失うだろう。

「テクノロジーを使うより生身の人間を使ったほうが安い」という仕事の究極は陸軍系の兵士だろう。
空軍、海軍ではどんどんAIや自動化された兵器が使われ、兵士は不要になるが、最終的に土地を占領するのに使われる陸軍系の兵士は、生身の人間を投入したほうが手っ取り早い。その際、どれだけの命が失われようが、経済的には安上がりという計算をAIはするだろう。
AIにとっては生身の兵士も消耗品に過ぎない
さらにいえば、戦争、武力紛争において、人命は取り引きの道具であり、どう使うのが有利な取り引きに持ち込めるかをAIは計算する
給料を払ったり、金をかけて訓練をしなければいけない兵士の消耗より、一般人が何人死んだ……という取り引き材料のほうが原価が安いと判断するだろう。

技術が進めば進むほど階層社会が固定化する

こうして、AIが導く機械化社会では、人間は「支配するごく小数の金持ち」と「安い労働力や命の取り引きの駒として利用される大多数の平民」に二分化される。
平民が楽しむ文化はAIに計算された消耗品になり、価値の計算が困難な「芸術性」「創造性」といった要素は停滞し、少しずつ劣化、後退していくだろう。
そうした社会において、金持ちたちは平民とは違う「高級な文化」を享受できるのだろうか?
「エプスタイン島」の事例などを見ても、とてもそうは思えない。
大昔、音楽や美術は宮廷などの支配層社会に奉仕する形で進化し、熟成していった。
しかし、これから先の二極化社会においては、バッハやモーツァルトのような天才作曲家が現れて金持ち層を楽しませるようなことはないのではないか。
社会の矛盾や闇を描く文学は排除され、表に出てくることもないのではないか。

AI技術そのものに罪はない。問題は、AIを使いこなす側の人間にある
人間の側に、AIを使いこなすだけの品性や覚悟が備わっていない。核技術を使いこなせなかったのと同じことが、AI技術にも起きている。
核と違って、AIは自分で意志を持つこともありえるかもしれない。すでに人間はAIに使いこなされているのではないか。

そんな社会に生きている自分は、残されたわずかな時間をどう過ごしていくべきか……。
Grokにそんな質問をぶつけてみたい気もするが、至極まっとうな答えが返ってきそうで、怖くてできない。

           



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