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のぼみ~日記 2025

2025/04/09

遅い春

今年の春は遅い。4月になってもなかなか気温が上がらず、さくらの開花も遅かった。

今日は昨日に続き、玄関横のヒメシャラも伐った。これはそれほど太くなかったので、脚立乗りのチェンソー。これで当分、庭木の伸びすぎに関しては心配が消えたかな。

あと、怖いのは地震か。これだけは防ぎようがない。

ズボラ苑では、お化けしだれがほぼ満開に



水仙も咲き始めている





冬を越した大根。萎びた身から元気にまた葉っぱを伸ばし始めている。大根は強い。



ポット撒きの種はなかなか発芽しない。去年は最後まで発芽せず、雑草だけ出てくるというのが結構あったなあ。種も価格が高騰しているので、発芽率が悪いと苗を買ってきたほうが安くつくこともありえる?



桜と一緒に撮りたかったんだけど、いいアングルが見つからなかった



日陰桜(大木)と空き地桜(しだれ)。夕方のお散歩にて



門柱のネコs


2025/04/10

花粉症激しく再来 はっくしょ~~ん


鼻水・くしゃみ・涙が大復活。……案の定……。どうやら杉だけでなく檜にも負ける身体になってしまったらしい



昨日伐ったヒメシャラ越しのお化けしだれ



左からタマネギ、オオイヌノフグリと何かの草、レタス
後ろにいっぱい見えているのは種まきしたところに立てた名札
これやっておかないと、どこに何を植えたのか全然分からなくなる



左が今が見頃のお化けしだれ、右がほぼ花が散った誤解スモモ

5年分の老化となかなか進まない「真・日本史」第4巻


更新した免許証が届いた。5年前の顔と今の顔。
次の更新は5年後の75歳。それまで無事に生きていられるかなぁ。
世の中もどんどん疲弊している。

我々の世代から1世代前くらいまでは、日本人(というか人類全体を含めて)の平均寿命が歴史上最も長くなった世代なのだと思う。
おそらくこれから先は少しずつ短くなる。下手すると江戸時代のように餓死する人も出てくるかもしれない。

そんな中でここまで70年も生きてこられたのは幸せだが、どんどん身体も脳も利かなくなっている今、何をして生存意義を持ち続けられるのか。ある意味とても贅沢な悩みだが、日々、そればかり考えている。
AIなんてものも出てきちゃったしねえ。助手さん曰く「もう人類もおしまいね。人間の文化はもう終わり」
……いや、大袈裟ではなく、本当にそういう気分。
ここから先、世の中に出てくる文章、映像、音楽、美術……AIが関与していないと証明できるものは一つもなくなるだろう。

「真・日本史」シリーズは明治時代の終わりまで書いて本にした。最終的には現在まで書きたいのだが、なかなか進まない。

大正時代以降は、noteには全文を掲載せず、森水学園のほうだけにUPしようと思う。
第4巻の最初をようやく書いたのだが、今までの何倍も時間がかかっている。気力の問題がいちばん大きいが、脳の劣化も……ねえ……。

森水学園にUPした「桂園時代と大正天皇」の後半をそのまま以下貼り付けてみる。これだけでもかなり長いので、よほど興味を持ってくれる人じゃないと読まないと思うけれど……。


(~略)
 ここまでを簡単にまとめると……、
 山縣は、当初は子飼いのようにしていた桂が西園寺となんだかんだですり合わせながらやっていくのを見て警戒し、次第に桂を警戒するようになり、排除しようとした。明治天皇が死去した後は、山縣は桂を内大臣兼侍従長に推挙し、事実上、政治の中枢部から追い出した。
 桂は桂で、「桂新党」結成を図って自分の地盤を固めようとしたけれど、やり方が強引だったために民衆の反発を招いて失敗。
 後を受けた山本権兵衛内閣は政友会との融和策もまじえて政局を立て直そうとしたけれど、海軍内の汚職事件(シーメンス事件)の責任をとる形で内閣総辞職。
 軍部と政党人は所詮水と油だったといってしまえば簡単だけれど、うまくいかないもんだね。最後は結局、私欲による権力闘争みたいなことになる。

大正天皇の実像

イシ: で、桂園時代の最後のほうで明治天皇が死去して大正時代になったわけだけれど、この大正天皇という人は、理不尽なまでに貶められたイメージを植えつけられたフシがある。
 私の親の世代は昭和一桁生まれだけれど、彼らの多くは大正天皇は痴呆で、帝国議会の開院式で勅書を丸めて望遠鏡のようにして覗き込む仕草で議員席を見渡したという、いわゆる「遠眼鏡事件」を口にしていた。私も親や親戚からその話を聞かされていたので、そのまま信じていたよ。

凡太: それは嘘だったんですか?

イシ: いや、まったくの嘘ではなかったと思う。ただ、頭が弱かったからではなく、別の理由から行ったことを、悪意を持って脚色して広められた可能性が高いね。
 大正天皇の人物像は、残されたエピソードを知れば知るほど、ある意味、魅力的、先進的で、100年早すぎた天皇だったんじゃないかとも思うよ。

 大正天皇の生涯をざっと見ていこうか。
 彼は明治天皇の三男で、母親は5人いた側室のうちの一人・柳原愛子(やなぎわら なるこ)
 彼女と明治天皇の間には、第二皇女・薫子内親王、第二皇子・敬仁親王、第三皇子・嘉仁親王の3人の子が生まれたんだが、成人できたのは嘉仁親王、後の大正天皇ただ一人だけだった。
 明治天皇は正室である昭憲皇太后との間には子ができなかったが、5人の側室との間に合計15人の子をもうけた。でも、成人したのはわずか5人で、男子は嘉仁親王ただ一人だった。

 で、大正天皇は痴呆ではなかったけれど、生まれつき病弱だった。
 生まれたときからすでに髄膜炎と皮膚炎を患っていて、その後も百日咳、腸チフスなどに罹患し、周囲を心配させた。小学校入学後も体調不良で長期欠席が続き、2年生で留年。その後、退学している。
 その後は直属の教育係がついて、帝王学として、国学や漢文、フランス語などを教え込まれたんだが、詰め込み教育がいきすぎたせいか、さらに体調が悪化してしまう。そこで、新たに教育係として指名された有栖川宮威仁親王が、学業よりも健康を優先させる方針をとるようになってから、徐々に元気になっていったそうだ。
 ある程度健康になってからは、自ら率先してフランス語や朝鮮語を学んで、フランス語で女官をからかったりもしていたというから、決して頭が弱かったわけじゃない。
子供時代の大正天皇
 性格は自由奔放で、御所から一人でよく抜け出しては、蕎麦屋に入って蕎麦を食ったり、海岸で漁師に鯛をくれと言ってみたり、山の中で道に迷い、村民に道を訊ねたりといったエピソードに事欠かない。周囲はそのたびに大騒ぎ。声をかけられた人たちも、後で皇太子だと知って驚いたそうだよ。
 臣下から様々な報告を受けるときなどは、話が長くなると飽きてしまって椅子から立ちあがったり、移動の際の輿(こし)の中でもじっとしていられなくてせわしなく動いたり、とにかく周囲の者たちを悩ませることが多かった。
 それと、子どもの頃から女性が好きで、女官などに「おまえの写真をくれ」とせがんで女性の写真を集めたりもしていた。
 女官の中では特に明治天皇の皇后・美子(はるこ)(昭憲皇太后:1849~1914)に仕えた山川(旧姓・久世)三千子(1892~1965)が大のお気に入りで、何かにつけて三千子にちょっかいを出したりしていたようだ。

凡太: 宮中のことなのに、そんなエピソードまで分かっているんですか?

イシ: 三千子が書いた回顧録『女官 明治宮中出仕の記』というのがあってね、皇太子明仁(後の平成天皇)と正田美智子が結婚した翌年の1960(昭和35)年に刊行されているんだけれど、そこに大正天皇のこともいろいろ書かれているんだ。
 三千子は自分に興味をもちすぎている大正天皇を警戒していて、大正天皇が即位した後に皇后宮職に移って大正天皇と貞明(ていめい)皇后に仕えるように命じられたときはそれを拒んで、大正天皇夫妻のいる皇居には入らず、皇太后の住む青山御所に留まることを許された。
 それでも大正天皇は諦めきれずに、何かにつけて青山御所を訪ねては、三千子を指名して話相手をさせていたらしい。でも、三千子のほうは大正天皇を遠ざけたがっていて、それを知っている皇太后が居留守を使わせたりもしていたという。

凡太: 大正天皇の恋心は実らなかったのですね。

イシ: そう。皇太子時代の明治33(1900)年、20歳のときに旧摂関家出身の九条節子(さだこ)と結婚した。これはもちろん恋愛結婚などではなくて、周囲があれやこれやと相談して決めた相手をあてがわれた形だ。
明治33(1900)年、結婚の儀に臨む際の写真(20歳)
 結婚直後も、他の女性、特に以前から噂のあったお気に入りの女官・烏丸(からすまる)花子などへの執心ぶりは皇后に隠すこともなかったようで、夫婦仲は必ずしもいいとはいえなかったようだね。

凡太: 自分で選んだ結婚相手ではないですしね。それでも、大正天皇は生涯側室をもたなかったとのことですが。

イシ: そうだね。少なくとも皇后以外の女性との間に子供は作らなかった。皇后・節子との間に4人の男子が生まれている。
だね。

凡太: 明治天皇のお子さんは15人いて、成人した男子はたった一人だったのに、大正天皇は病弱ながら4人のお子さんに恵まれ、しかも全員男子で、みんな成人できたんですね。

イシ: そういうことだね。大正天皇に子ができなければ天皇家断絶の危機だったわけでね。もっと称えられてもよさそうなのものだけれど、明治天皇や昭和天皇のように誕生日が祝日になっていないし、「遠めがね事件」が面白おかしく歪曲して広まって、暗愚の天皇という印象を植えつけられたりして、なんとも気の毒だよ。今の時代に生まれていたら、ずいぶん違った評価を受けていたんじゃないかな。言い方が悪いかもしれないけれど、タレント性があったと思うよ。テレビ向きとでもいうか、親しみやすいキャラというか……。

凡太: テレビタレントみたいな天皇ですか? ……なんかイメージできませんけど。

イシ: まあ、分からないよね。我々が実際に接することはできないわけだから。
 ただ、軍部や明治の元老生き残りのような勢力にとっては、ものすごく不都合な天皇だったことは確かだ。
 大正天皇もそれは分かっていて、特に山縣有朋をあからさまに嫌っていた。
 遠めがね事件というのも、私としては、自分がただ利用されているだけの立場であることに対する一種の反抗アピールだったんじゃないか、なんて思っているんだ。議会に集まってあれやこれや揉めている諸君、ご苦労だね。私はここで高みの見物をさせられているよ……みたいな。

「明治天皇すり替え説」の真偽

凡太: 斬新な解釈ですね。でも、ほんとにそうかもしれませんね。
 ともかく、大正天皇が皇后との間に4人の男子をもうけたということは、皇室の危機を救ったわけですよね。ギリギリつながったんだ。

イシ: 大日本帝国憲法の第一章第一条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」だからね。
 もっとも、天皇家の系譜が神武天皇からつながる「万世一系」かどうかは怪しい。乙巳の変の前あたりですでに皇族間で殺し合いが起きている。あのへんで歴史の改竄があったかもしれない。その後も、後醍醐天皇のときは南北朝分裂が起きた。
 江戸末期では、孝明天皇が実は暗殺されたというのは、私はかなり信憑性が高いと思っているし、さらにはその後を継いだ明治天皇には「すり替え説」まであるくらいだからね。

凡太: え? 明治天皇すり替え説? 何ですか、それは。

イシ: おっと、それを話し出すと脱線してしまうんだけれど、幕末から明治にかけてのところでは敢えてスルーしたので、ここでチラッと触れておこうか。

 明治天皇すり替え説を簡単にいうと、

凡太: ええ~! ほんとですか、それ。初めて聞きました。

イシ: 本当かどうかは分からない。単なる噂だとしても、政府にとっては最大のタブーだから表に出したくないしね。現在の歴史学界でもほぼ否定されている。
 でも、火のないところに煙は立たない……でね。この説を唱える人たちの論拠を見ていくとなかなか興味深いよ。
 入れ替え説が出てきた最大の理由は、天皇即位前の睦仁親王と、即位後の明治天皇の人物像があまりにも違っていて、即位を境に別人になったかのような印象を受ける、というもの。いくつか拾ってみると、


凡太: それが全部本当なら、だいぶ怪しいですよね。

イシ: そうなのよ。だいぶ怪しい。でも、どれも情報源が特定できない伝聞情報だから、どこまで信用できるか分からないんだよね。
 入れ替え説の多くは、長州にいた後醍醐天皇の末裔である大室寅之祐という人物に入れ替わった、としているんだけれど、この大室寅之祐は南朝の子孫などではなく、父親は海賊で、後醍醐天皇の血筋を引くといわれている大室家の血は引いていないらしい。
 でも、入れ替えられた人物が大室寅之祐なのかどうかも分からないし、そうだとして、入れ替えた側が分かった上でやったということも考えられるよね。要するに自分たちが利用しやすい、自分たちが理想像とする「質実剛健なイメージの天皇」にすり替えることが目的なのだから。
 ……と、疑い出すときりがない。結局は分からない。こういう説って、後からどんどん面白おかしくでたらめな話を付け加えることが多いからね。

凡太: やはりでたらめですか?

イシ: 私としては、まったくのでたらめともいいきれない、というところかな。
 そもそも「萬世一系」の天皇という概念に無理がある。直系男系の血統が延々と続いてきたというのは権力機構が都合よく作り上げた虚構だろうし、「萬世一系」そのものが重要なことだとも思わない。企業経営や政治家については世襲の弊害が言われるのに、天皇制については現代においても語ることさえタブーにされている。
 日本史を俯瞰する上で、天皇や皇室の存在というのは、時代によって意味合いが違っていく。ずっと存在してきたんだけれど、役割というか、機能が変遷してきた。
 権力闘争の主役だった平安時代まで~権力を求めた者たちに利用された明治時代まで~利用され、神格化されたことで多くの国民が理不尽な死に追い込まれた昭和前期・太平洋戦争敗戦まで、「国民統合の象徴」というよく分からない役割を無理矢理与えられている現代まで……という変遷を、冷静に分析し、考えることに意味がある。
 血筋がどうであれ、天皇という存在がずっとあって、それが政治とどう関わってきたか、社会のシステムの中でどういう役割を果たしていたのか、ということだね。

「天皇の基本的人権」問題

凡太: こんなことを言うと怒られそうですが、ぼくは天皇家に生まれなくて幸せだったと思ってます。皇室の人たち、特に天皇や皇太子は、事実上職業選択の自由がないでしょう。たしか選挙権もなかったような……。

イシ: そうだね。明らかな人権侵害だよね。私生活は完全に隔離され、公務では人々から注視されることを強いられる。はっきりいえば「自由がない」生活。
 今の憲法は、万人は平等で基本的人権を有するとしていながら、いきなり第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」……と、例外を作ってしまっている。現行憲法を守れという人も、改憲しろという人も、そのことに異を唱えることはほとんどない。みんな「自分のこと」だと思っていないからだろうね。
 「国民の総意」というのも曖昧で、国民全員が納得するということはありえないから、この「総意」は「多数意見」「なんとなく多数が持っているイメージ」みたいなものらしい。であれば、国民は自分たちには憲法第14条に定めた「基本的人権」があるけれど、天皇は例外でいいと突き放していることになる。

凡太: 憲法第14条って、いわゆる基本的人権について定めた部分ですよね。

イシ: そう。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」という条文だね。
 これをさらに細かく解釈して、「平等権」「自由権」「社会権」「参政権」「請求権」という5つの基本的人権、としている。
 でも、天皇にはこれらが認められていないわけだよ。
 よく、女帝を認めていない日本は男女平等という基本的人権に反すると主張する人がいるけれど、そもそも現行の天皇には基本的人権がない。政治参加ができない、生まれた性別や順番によってその後の生き方が決められてしまう、事実上職業を選べない……。
 もっと分かりやすく言えば、例えば、「○○さんの××という曲が好きで、毎日ネットで聴いています」とか「ニーチェの思想に共感を覚えます」「ΔΔ議員の発言はおかしいと思います」なんてことさえ言えない。その影響の大きさから、たとえ口にしたとしても周囲は必死に隠そうとするだろう。
 人権とか平等と言うなら、女帝を認めろではなく、天皇の人権問題から議論を始めないとおかしい。

 天皇制をいきなりなくすのは民意が認めず難しいだろうけれど、少なくとも、今のように形式だけの国事行為で煩わせるようなことはやめるべきだ。内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命、国務大臣や官吏の任免の認証、国会召集、法律・条約の公布、大使の信任状認証……その手の行為から開放することは、憲法を変えることなく行える。
 閣議決定の書類への署名押印だけでも毎年1000件前後はあるという。事実上、拒否することはできないんだから、そういうことでお手を煩わせるのは、天皇に対する政権側のハラスメントと言ってもいいんじゃないかな。
 一方では、国民栄誉賞なんかは「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇ではなく内閣総理大臣が直接表彰する賞で、政治利用だと言われても仕方がない。内閣が勝手に「国民の栄誉」だなんて決めるな、と言いたいね。

凡太: あ、なんだかだんだん危なくなってきたような……。

イシ: おっと、明治天皇すり替え説からどんどん話が脱線していったかな。
 最初はなんだっけ? ああ、大正天皇の話からだったね。
 とにかく大正天皇という人は理不尽に貶められて語られたフシがある、と。
 大正天皇が即位してすぐにヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発して、日本も日英同盟を理由に参戦したり、米騒動、スペイン風邪の猛威、シベリア出兵……などが続いてストレスの溜まることが続出した。そのせいもあるのだろうけれど、大正7(1918)年の暮れ頃に風邪を引いて以来はずっと病気がちになり、病状は悪化の一途をたどった。
 大正10(1921)年秋に皇太子・裕仁親王が欧州視察から帰国後は、皇太子を摂政にする動きが活発化して、11月4日に大正天皇が信頼していた原敬首相が暗殺された後、11月25日には正式に裕仁親王が摂政に就任した。
 大正天皇はそのとき、最後まで御璽(天皇のハンコ)を渡すまいと抵抗したそうだ。軍部を中心とした勢力が自分を政治から完全に外して暴走していくことに危機感を覚えていたのかもしれない。実質、このときが「大正時代」の終わりと考えてもいいかな。
 その後の大正天皇は病状が悪化するばかりで、最後は歩行不能、言葉もまともに発せられない状態になり、大正15(1926)年12月25日未明に亡くなった。まだ47歳だった。

凡太: クリスマスに亡くなったんですね。

イシ: そうだね。クリスマスが命日。今の日本では、その夜は日本中でホテルやレストランが満杯になって祝っているというのも、なんとも皮肉だな。
 ちなみに大正天皇の誕生日は8月31日だけれど、今の日本では祝日にはなっていないね。明治天皇の誕生日である11月3日は文化の日、昭和天皇の誕生日の4月29日は昭和の日として今も祝日になっているのにね。
 私としては、大正天皇の誕生日を祝日にするなら「自由の日」とでもしたらいいと思うよ。

『真・日本史』第1巻・第2巻・第3巻発売!


『真・日本史(1) -縄文時代~黒船来航まで- 1万年の平和を壊し続けた者たち』

弥生時代を築いた渡来人は2系統いた。1000年の「暴力団時代」の後に訪れた奇跡のような戦のない200余年。西郷、大久保、板垣らが「まともな維新」をぶち壊して、イギリス傀儡政権を作ってしまった。
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 -----内容-----
1. 縄文時代~大和王権まで
「縄文時代」は1万年以上/「縄文人」は単一種族ではない/日本列島に殺し合いが持ち込まれたのはいつか/歴史から消された出雲王朝/邪馬台国は南九州にあった/西洋と日本の歴史を戦争の視点で比べる/空白の四世紀/「記紀」という権力者による歴史創作/日本書紀に記された原住民殺戮の記録/聖徳太子は架空の人物なのか?/大和王権成立までの大筋を推理する/ニギハヤヒは鬼伝説となって生き残った/現在も皇室の中に残る出雲の力/現日本人の特質は古代からの混血によって生まれた

2. 江戸徳川政権時代まで
朝廷の弱体化の下で暴力団国家となっていく日本/「下請け」が力をつけて成り上がる時代/合戦の時代に横行した略奪や奴隷売買/権力が弱まっても天皇家が消滅しなかった理由/徳川政権確立までの道のり/家康の「代わり」が務まる人物はいたか/徳川政権創生期を支えた裏方たち/天海とは何者だったのか?/戦争がなくなり開花していく庶民文化/江戸時代の特異性を世界史視点で考える/インカ帝国殲滅のようなことが日本で起きていたら?/島原の乱は「宗教戦争」ではない/「キリシタン」を巡るゴタゴタ/日本が西欧列強の植民地にならなかった理由/人が大量に死ぬ最大の要因は疫病/歴代将軍の治世を再評価/一気に花開いた江戸庶民文化

3. 攘夷テロと開国までの道のり
江戸時代の世界情勢/帝国主義と資本主義/産業革命の条件/ノーベル兄弟とロスチャイルド家/黒船来航前にあったこと/アヘン戦争ショック/ペリー来航前に書かれた一冊の「日本攻略本」/ペリー来航前の日本/マンハッタン号とクーパー船長/日本に憧れたマクドナルド青年/優秀な人材を生かせず、殺してしまった幕府/ペリーは日本の開国に失敗していた/日本を開国させたのはハリス/最高の人材ヒュースケンを殺した日本のテロリストたち/日米修好通商条約は「不平等」条約ではなかった
ISBN978-4-910117-54-6  A5判・134ページ 
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『真・日本史(2) -幕末史「戊辰クーデター」の実相- テロリストと欧米エリートが壊した「維新」』

徳川政権が続いていれば日本の近代化(維新)はずっとうまくいき、イギリスの傀儡政府のようになることはなかった。幕末の「志士」や明治の「元勲」たちの残虐なテロ犯罪を検証していくだけでも、「明治維新」がいかに暴虐かつ無知なクーデターであったかが分かる。

旧版『馬鹿が作った日本史 縄文時代~戊辰クーデター編』の後半部分を補完・改定してAmazon KDP版にすることで価格を大幅ダウン。
 -----内容-----
1. テロリストたちが作った幕末史
日本崩壊序曲は水戸藩から始まった/幕末史の重要人物まとめ/優秀な人材はほとんど明治前に消された/幕末のテロ事件一覧/幕末日本に関わった外国人たち

2. 戊辰クーデターまでの経緯
生麦事件と薩英戦争が大きな転換点だった/倒幕のキーマンは久光とパークス/西郷らにも影響を与えたサトウの「英国策論」/公武合体派の奮闘と挫折/長州藩唯一の良心・長井雅楽の無念/久光が動く/松平春嶽、横井小楠の悲運/「まともな維新」を不可能にさせた人たち/孝明天皇という最大の障壁/禁門の変という愚挙/中途半端すぎた長州征討/小栗忠順、栗本鋤雲、赤松小三郎らの無念/孝明天皇は暗殺されたのか?/坂本龍馬の実像/「大政奉還」「王政復古」の真実/江戸で大規模テロを起こした西郷隆盛の大罪

3. 戊辰戦争は日本史の恥
「国造りという仕事」を放棄して逃げた徳川慶喜/江戸「無血」開城の裏側/上野戦争の無残/シュネル兄弟と東北諸藩/「ジャパン・パンチ」から読み取る諸外国の動向/庶民が見た幕末を伝える「風刺錦絵」/奥羽列藩同盟結成までの経緯/恩賞原資としての東北侵攻/白石会議による東北諸藩の自衛団結/世良修蔵暗殺で始まった東北戊辰戦争/北越戦争の裏でも動いていたサトウ/東北戊辰戦争の悲惨と理不尽/東軍はなぜ負けたのか/「白虎隊の悲劇」をより正確に知る/二本松藩の悲劇/裏切り・離反の連鎖と庄内藩の孤軍奮闘/最後はイギリスがとどめを刺した/テロリズムと武力が作った明治政府

ISBN978-4-910117-55-3  A5判・162ページ 
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『真・日本史(3) -馬鹿が作った明治』

明治「維新」がいかに愚劣なクーデターであったかを告発する本は多数出ている。本シリーズの第2巻でも、戊辰クーデターは「維新」などと美化されるものではなかったことを順を追って解説したが、そのクーデター後に始まった明治という時代を作った明治新政府は、やはりダメダメだった。副題では思いきって「馬鹿が作った」と言いきっているが、では一体どのへんが馬鹿だったのか。
例によって、講師と生徒一人の対話形式で、講談を聞いているようにスラスラ読める。

 -----内容の一部-----

οゴシップ記事から見えてくる明治政府の主役たちの素顔(女狂いの伊藤博文、渋沢栄一/黒田清隆の「妻殺し」/彼らの裏に見え隠れするロスチャイルドの影)
οないないづくしで発進した明治政府/兵制と御親兵を巡る対立/廃藩置県というクーデター/福知山線事故は明治政府の責任?
ο征韓論という病理/台湾出兵というガス抜き策/欧米にしてやられた以上のことを朝鮮にした日本
ο廃仏毀釈という悪夢/破壊されたのは「もの」だけではなく人々の心
ο司法卿をまともな裁判もせずに斬首・晒し首/西南戦争の実相
ο渋沢栄一成功物語の裏にある藩閥政治/渋沢は日本初の銀行の「創設者」ではない/渋沢と岩崎弥太郎の違いと共通点
ο自由民権運動とは何だったのか?/板垣は藩閥政治が産み落とした鬼っ子/福島事件の実相/板垣は死せずとも自由は死んだ?
ο薩長閥 vs 大隈・板垣の権力闘争/大日本帝国憲法は「伊藤憲法」/大日本帝国憲法という呪い
ο日清戦争への助走/当時の中国と朝鮮もトンデモな政体だった
ο日清戦争と日本の戦争依存症/大院君vs日本の裏工作対決
ο日露戦争勝利という歴史の番狂わせ/ポーツマス条約という「成功」を理解できなかった日本国民
ο満州と朝鮮への進出という毒饅頭/ハーグ密使事件と伊藤の韓国保護政策/伊藤博文暗殺で韓国併合が加速
ο大逆事件と特高創設で終わる明治時代
真・日本史(3)
ISBN978-4-910117-60-7  A5判・172ページ 
Amazon KDP版 1485円(税込)

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