2025/04/30
ロシア革命から学ぶこと
森水学園第三分校に連載中の「真・日本史」シリーズ第4シリーズにようやく1つ追加した。
「シベリア出兵とヴェルサイユ条約」と題した回なのだが、その中からロシア革命について調べた部分だけnoteにも転載したので、ここにもごく一部だけれど残しておこう。
ロシア革命はどんな「革命」だったのか
イシコフ: さらに11月に、ロシアで「
ロシア革命」が起きた。これは史上初の社会主義革命だとされている。
凡太: どういう革命だったんですか?
イシ: うん、一言で社会主義革命なんていわれても、背景がよく見えてこないよね。
社会主義とは何か、という話になると収拾がつかなくなるから、ここでは深掘りしないでおこう。まあ、ものすご~く端折って言えば、資本家という支配層と、その資本家に賃金で雇われて生活している労働者という二項対立で社会を考えていき、労働者階級が革命を起こして、あらゆる生産手段を社会全体のものと見なす平等な共同社会を実現する、というようなイメージかな。いろんな人がいろんな社会主義を提唱したけれど、いちばん影響力があったのはドイツ(プロイセン王国)に生まれたカール・マルクス(1818-1883)だろうね。
その思想的な内容分析は置いておいて、実際に「ロシア革命」とはどんなものだったのか、何がどのように起きたのかを見ていこう。
まず、ロシアは第一次世界大戦では連合国側の一員だったわけだけれど、対ドイツの戦闘では負け続きで、国内は疲弊しきっていた。労働者たちの間には厭戦気分が広がっていた。帝国支配者である
ニコライ2世は自らが戦地へ赴いて指揮を執ることにしたんだが、これがかえって国内の政治空白を生み、墓穴を掘る状況になった。
しかも、妃のアレクサンドラ皇后はじめ宮中の貴族、特に女性たちは、「怪僧」と呼ばれた
ラスプーチンという人物に入れ込んでいて、それを危険視するグループとの間でスキャンダルが飛び交う異常な状態。市民や多くのロシア正教司祭たちからもラスプーチンは敵視されていて、
ラスプーチンを巡って皇室・貴族内での分裂、皇帝一家と市民が対立するような構図もできあがっていた。
1916年12月にラスプーチンは暗殺される。暗殺したのはロシア有数の大貴族・ユスポフや皇族のドミトリーという、支配者側の人間だった。
ラスプーチンという人物の実像は今も謎に包まれたままで、どう評価していいのかも分からない。暗殺に関しても、ラスプーチンが非戦を主張していたため、イギリス情報部が裏で動いていたなんていう話まである。
イギリスとしてはロシアがドイツを食い止めておいてくれないとまずい。ロシアが戦争から離脱したらドイツの勢いが増すからね。
グリゴリー・ラスプーチン(1869-1916)
シベリアの寒村で生まれた。学校に通えなかったために読み書きができず、話す言葉も訛りがひどくて伝わりづらかったといわれる。30代のときに「巡礼に出る」と言って村を出る。その後、各地で修行を積んだとされ、次第に病気を治癒してくれる「神の人」と噂されるようになる。
1905年、46歳のときロシア皇帝ニコライ2世・アレクサンドラ皇后夫妻に謁見。その後、血友病だったアレクセイ皇太子の治療を通じ、アレクサンドラ皇后の寵愛を受ける。宮中の多くの女性たちも傾倒し、そこから様々なスキャンダルが宮廷内外に広まった。
終生、ロシアはいかなる戦争にも関与すべきでないと主張し、国内の主戦派やイギリスなどの連合国からは危険人物視された。
1914年6月には暗殺者によって自宅で腹部を刺されたが、一命を取り留めた。しかし、1916年12月、有力貴族のユスポフの一派によって暗殺される。これをきっかけに、ニコライ2世と貴族会議・ドゥーマの対立がさらに深まり、ニコライ2世が退位を宣言し、ロマノフ朝ロシア帝国は崩壊した。
凡太: ロシアもこの時期はグチャグチャだったんですね。
イシ: そうだね。
大枠を確認しておくと、ロシアはそれまでの帝国体制を続けようとする勢力(白軍)と、帝国を倒して社会主義革命政府を作ろうとする革命勢力(赤軍)がぶつかって内戦状態になった。
1917年に戦争継続と帝政による専制政治に反対する市民たちが起こした2月革命が起きて、国会臨時委員会が設立されて立憲民主党(カデット)が中心となった民主政権ができた。この政権は中産階級と協力して穏健で漸進的な民主主義革命を目指していたんだけれど、短命に終わってしまった。内政では民主的な政策を打ち出していたんだけれど、対外政策としては戦争継続を決めたので、10月には社会主義を掲げて
ウラジーミル・レーニンが率いた勢力「
ボリシェヴィキ(全連邦共産党)」主導の10月革命が起きて、解体されてしまった。
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1870-1924)
中流階級の教育者の家庭に生まれる。本名はウラジーミル・ウリヤノフでレーニンはペンネーム。兄が1887年に皇帝暗殺計画に関与したとして処刑されたこともあってか、青年時代からマルクス主義革命家を志す。1897年、扇動罪で逮捕され、シベリアに流刑される。出獄後、ロシア社会民主労働党の幹部になるが、1911年、革命のやり方を巡ってユーリー・マルトフ(1873-1923)らのグループ(メンシェヴィキ)と決別。ロシア社会民主労働党は分裂した。1917年の2月革命後はロシア臨時政府の転覆に動き、10月革命を成功させて自身が首班となる社会主義政権を樹立。第一次世界大戦から離脱した後に隣国のポーランドに侵攻したが失敗。1922年12月にソビエト連邦建国で行政府初代議長に就任。台頭してきたスターリンとの対立を深めていたが、何度かの脳卒中を経て1924年1月に満53歳で死去。
凡太: 革命と同時にいきなり共産党政権ができたわけではなかったんですね。知りませんでした。
イシ: 革命勢力のロシア社会民主労働党が、大雑把に言うと穏健派と過激派の2つのグループに分裂したことは案外知られていないね。2月革命後の臨時政府が強固なものだったら、そして大戦からの撤退を決めていれば、その後のロシアの歴史は大きく変わっていたのかもしれない。
幽閉されていたニコライ2世一家も、ボリシェヴィキが実権を握った後に、全員が殺されてしまった。
いろいろ間違った判断もあったかもしれないけれど、ニコライ2世は常に国のためにと思って動いていた人だったことは間違いない。
ニコライ2世(1868-1918)
本名ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。ロシア帝国ロマノフ王朝14代皇帝。22歳の皇太子時代、極東を中心に世界を回り見聞を広める。1891年4月にはギリシャ王国のゲオルギオス王子と共に来日したが、5月11日に大津でびわ湖や神社を見学していた後の帰路で警察官にサーベルで斬りつけられ、頭部に重傷を負う(大津事件)。以後、生涯その後遺症に悩まされた。
1894年、父アレクサンドル3世の死去で、26歳でロシア皇帝に即位。その直後、以前から見初めていたドイツ領下ヘッセン大公国大公ルートヴィヒ4世と英ヴィクトリア女王の次女アリスとの間の末娘・アリックスを妃に迎えた(妃になってアリックスはアレクサンドラに改名)。アレクサンドラ妃は英女王の下で育ったためにロシア語は話せず、ロシア国内の社交界では異端視され、苦労した。
皇帝即位後のニコライはヨーロッパにおいては友好政策をとった。1894年に露仏同盟を結び、オーストリア=ハンガリー帝国の皇室とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催を提唱。1899年にはハーグ陸戦条約の締結に結びつけた。一方、朝鮮半島の利権を巡って日本との間では1904(明治37)年に日露戦争が起き、ロシアにとっては予想外の敗戦となる。その結果、疲弊した10万の民衆が皇帝への嘆願書を持ってデモをした際、軍が発砲して数千人規模の死傷者を出す「血の日曜日事件」が起き、これが後のロシア革命への引き金ともなる。
第一次世界大戦勃発後は先進的武器を備えたドイツ軍に歯が立たず、自ら最高司令官を罷免して前線に赴き、最高司令官として指揮を執ったが、留守を預かるアレクサンドラ皇后とラスプーチンへの国民の反発が強まり、内政崩壊につながった。
1917年に起きた2月革命で皇帝を退位。弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ろうとしたが断られ、300年続いたロマノフ朝が終わった。その後、臨時政府によって皇帝一族は監禁され、何度か移送された後、臨時政府に代わってボリシェヴィキが実権を握った1918年7月、家族7人(ニコライ2世、アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)、専属医、使用人3名の11名が銃殺された。
捕らえられ幽閉されていたときのニコライ2世の娘たち。左から、マリア、オリガ、アナスタシア、タチアナの4元皇女(Wikiより)
凡太: ニコライ2世一家は、子供たちも含めて全員が殺されてしまったんですか?
イシ: そうだ。専属医師や使用人も一緒にね。
ニコライ2世一家だけでなく、元皇族や元貴族、富農らが裁判も行われずに多数殺されている。その後のスターリンの恐怖政治時代の蛮行がすでにこのときに始まっていたと言えるね。
そんな状況だから、それまでの帝政ロシアの体制を支持した白軍側の人たちの多くは国外に亡命した。いわゆる白系ロシア人と呼ばれる人たちだね。
凡太: 白系ロシア人というのは、白人のロシア人という意味かと思ってましたけれど、違うんですね。
イシ: 全然違う。ロシア人は大きくくくればスラブ系民族が中心で、概ねみんな肌の色は白いよ。見た目とかではなく、赤軍に対する白軍側の人たち、という意味で「白系」と呼んだんだ。スラブ系以外のウクライナ人やポーランド人、ユダヤ教徒(アシュケナジム)なんかもボリシェヴィキに迫害されたから国外に逃げ出す人が多かった。ボリシェビキは無宗教を標榜していたため、ロシア正教会の信徒たちも多数亡命している。
日本にも結構亡命しているよ。読売ジャイアンツで1937年から1940年まで5シーズン連続最多勝利を上げた投手のヴィクトル・スタルヒンは、ロマノフ王朝時代の帝国陸軍将校の家に生まれ、革命軍に追われてウラル山脈を越え、シベリアを横断して満州のハルビンまで逃げてきた一家の子だ。母親が隠し持っていた宝石を亡命資金にして北海道に入り、無国籍のまま北海道旭川で暮らすという少年時代を過ごした。
大相撲で32回の優勝を成し遂げた横綱・大鵬は、父親がウクライナ人の元騎兵将校で、ロシア革命後に日本に亡命した白系ロシア人だ。母親は日本人で、日本が領有していた南樺太で生まれている。
チョコレート菓子で有名なモロゾフの創業者フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフも白軍を支援していたためにロシア革命後に家族を連れて国を出て、中国のハルビン、アメリカのシアトルを経て、神戸に落ち着き、洋菓子販売の会社を立ち上げた。
巨人・大鵬・玉子焼きならぬ、巨人・大鵬・チョコレートだな。
凡太: なんですか、それ。
イシ: あ、巨人・大鵬・玉子焼きは知らない世代だったね。まあ、いいや。
亡命ができた白系ロシア人は殺されずに済んだから、その後、様々な分野で活躍する人もいたけれど、ロシア国内で無名のまま殺された帝国支持者たちは数え切れないほどいただろう。
凡太: やりきれないですね。
イシ: 歴史の中で「革命」という言葉で表される事件はたくさんあるけれど、その多くは残虐で血なまぐさいものだ。そして、時の権力者を倒すという高揚感や、自分が所属する民族集団こそがいちばん優れているんだという思いこみで、一般庶民も、直接間接に恐ろしい殺人集団と化すことが珍しくない。今、こうして「ひどい」とか「なんでそんなことに」とか言っている君も私も、そうした時代、そうした状況の中にいたら、どう行動するか分からない。人間にはそういう怖さが内包されている、ということを、日頃から認識しておかないといけないよ。いざというときに暴徒の一人に変身してしまわないように。
(
⇒全文は森水学園のサイトでどうぞ)
キュウリのポット苗

種から育てるのは難しい。トマト、キュウリ、ナス、リーフレタスなどをポットに種まきしたのだが、しっかり発芽してきたのはキュウリだけ。まだちょっと早いけれど、植え替えてみた。
キュウリだけは発芽率100%。すばらしい!
発芽しない種って、よく見るとすべて外国産。枝豆も、同じときに植えたのに、北海道産の種はしっかり発芽しているのに、中国産のはぽつんぽつんとしか出てこない。でも、国産の種って、なかなか売っていないし、高いんだよね。
ジャガイモの芽かき移植

キタアカリをザックリ芽かきしたのだが、植えておくと根づくかと思って植えたやつがしっかり根づいている。さて、これにもジャガイモができるかしら。小さいやつならできるという人もいるけれど……。
そんなこんなで4月も終わり。今年もすでに3分の1が終了か……。70過ぎると、時間が経つのが怖いわ。
『真・日本史』第1巻・第2巻・第3巻発売!

◆『真・日本史(1) -縄文時代~黒船来航まで-
1万年の平和を壊し続けた者たち』
◆『真・日本史(2) -幕末史「戊辰クーデター」の実相-
テロリストと欧米エリートが壊した「維新」』
◆『真・日本史(3) -馬鹿が作った明治』-
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