2011/02/05

釈雲照、釈戒光、釈定光、稲村英隆、釈大真、小松寅吉を結ぶもの

京都西明寺にある「阿育王石塔」の謎を追うシリーズ第三回である。
小松寅吉が死ぬ前に京都西明寺まで行って「阿育王石塔」なるものを彫り上げていた件は、すでに書いた(⇒ここ)

西明寺にある「阿育王石塔」は、柱の上に馬の像が乗っていたと伝承されているルンビニ(ネパール)の石柱を、その後発掘されたサルナート(鹿野苑)の石柱(上に背中合わせの4頭の獅子像)を参考にして「復元」したものだろうという推理もしてみた。
ルンビニの石柱は1896(明治29)年に発見され、柱に刻まれたブラーフミー文字の解読により、その地がブッダの生誕地であるとされた重要な遺物だ。もともと、柱は4本あり、上には馬の像が乗っていたと言い伝えられていたが、その馬の像は喪失しており、どんなものかは分からなかった。
その後、1904年(明治37年)にサルナート(インド)でも阿育王石柱が発掘された。
西明寺にある「阿育王石塔」は、サルナートの石柱を模して下部分を造り、上の4頭の背中合わせの馬は、「きっとこうだったに違いない」と想像した寅吉のオリジナルだったのではないか、というのが僕の推理だった。
問題は、そういう石柱を誰が寅吉に依頼したのかということだ。明治時代、福島の石工と京都の名刹を結びつけた人物がいたはずだ。
また、背中合わせの4頭の馬というアイデアは、寅吉が自分で考えたのか、それとも依頼者がそのように依頼したのかも謎だ。

今回、石川町元助役で、寅吉・和平の作品を追いかけている吉田利昭さんが西明寺に問い合わせたところ、高岡義寛 現住職から書簡と数枚の写真が届けられた。
それによれば、まずこの石柱には「大正元年建之處(?) 彫刻布孝」と刻まれていた。
やはり寅吉の作品だったのだ。大正元年だから、寅吉の銘が残っている最後の作品ということになる。(大正2年の「小松"孝布"銘の毘沙門天像は、「布孝」ではないし、ほとんど小林和平の手によるものであろうから除外)
高岡住職からの返信によると、この石塔は当時の住職・釈大真和尚の発願で建立されたとのことだ。
釈大真和尚は、戒律復興をめざした「釈迦牟尼会」の設立に尽力。自らインドに渡り、佛跡として建てられていた阿育王石塔を見て、同じものを西明寺の裏庭に建立したと、ご住職は伝え聞いているそうだ。
そこで、まず「釈迦牟尼会」を検索して調べてみたところ、
釈迦牟尼会は大正9年8月に釈定光老師によって創立された、となっている。
そこで、釈定光(しゃく・じょうこう)を調べると、

釈定光老師は、1884年生まれ、1949年に65歳で亡くなった。
老師は学生時代、一時キリスト教を信仰したが、26歳のとき永嘉真覚大師の『証道歌』の一節に感動し、翻然として出家した。
そして雲照寺の戒光老師に師事し、真言と律と禅の三学をすべて修めた。
特に禅の修行に力を尽くし、29歳のとき臨済宗隠山派の妙心寺からの伝統の禅を嗣法した。
その後天台大学、真言大学に学び、幅広く、仏教学を勉強した。
その後、師から雲照寺を継ぐように要請されたが固く辞退し、
「これからの仏法は在家仏法にある。」
という考えから一般在家のための教団として、釈迦牟尼会を創立した。

……とある

また、
釈定光老師の師は那須雲照寺獅子林主・釈戒光老師、その師は伊予大法寺で教禅一致の不顧庵・西山禾山老師。さらに遡ると妙心寺の越渓老師、備前曹源寺の儀山老師、太元老師、さらに遡って峨山、隠山から白隠となります。
……とのことなので、雲照寺の准提観音像を彫った寅吉とは雲照寺を通じて結びつく。

釈定光和尚については、こんな興味深い記述もあった。
長いが、失礼して以下引用させていただく。

たしかに鑑真の律蔵の紹介によって「法と律をよく保つ(*12)」 聖僧は少数だが存在した。しかし彼らの戒律の正念相続はあくまでも自主的な自覚的なものであり僧団からサンスカーラされたものではない。臨済宗では不二般若道場を設立した釈定光がいる。一生妻帯せず不犯の人生を送り出家と在家の峻別をし一日二回の食事と不飲酒、肉食せずなどを徹底された。定光は破戒の僧を嫌うこと獅子身中の虫の如くで破戒の一件でみずから後継者として選んだ増賀大光を絶縁破門にした。定光とともに比叡山天台宗大学に学び後に参議院議員、明治大学教授と転進し、在家の弟子として定光に参禅した太田敏兄氏に、互いが学生時代には『心では現在の寺院を全部焼き払って、僧侶を皆殺しにしたい』と語っている(*13)。
その不二般若道場には妙心寺派の中川宗淵や後の曹洞宗総持寺貫首槫林浩堂も参禅したが定光は不飲酒を守らぬ僧の参禅に非常に不快な態度を示したという。
しかし定光の持戒も自らの自覚的なもので掛錫して法を嗣いだ那須雲照寺(*14)が真言律と臨済禅の兼修道場であったことにもよる。師の釈戒光は越渓下の伊予大法寺西山禾山の法嗣であると同時に釈雲照(1827-1909)(*15)直流の戒律を相承した人でもあった。定光は雲照の仏教復興運動の流れの中に臨済禅を据え、本師戒光の切なる願いであった雲照寺四世の座を固辞、空海や行基ゆかりの西国三十三箇所の第四番札所槇尾山施福寺座主、兼浦江了徳院住職の要請も一顧だに与えず在野にくだり臨済宗師家として不二般若道場を設立した。龍澤寺の山本玄峰は昭和最後の聖僧と呼び敬ったが、定光の持戒の正念相続と正念決定は日本仏教の腐敗に立ち向かう強靱な自負と自覚のあらわれであったのだろう。

 雲照や定光の様な人が出て賞賛されるのは如何に日本仏教が『戒律を厳密に守る者こそが真の出家者であるという原則は無視された』かを連続してきたかの証左でもある。明治5年の太政官布告「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し、法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず」の発令はおそらくなし崩し的に日本仏教が戒を放棄していったと考えられる。そもそも僧尼令による「肉食妻帯の禁」も僧の授戒からの自覚的な正念相続などではなく国家公務員としての禁止事項に過ぎない。明治から少しくだった定光の時代に『心では現在の寺院を全部焼き払って、僧侶を皆殺しにしたい』ほどだったのだからそもそも太政官布告の前から戒はまもれたら守るべき道徳程度にしか意識されていなかったのではないか。雲照や定光は仏教復興運動、あるいはルネッサンスなどと言われたりもするがこんなことはインドの仏教では当たり前のことなので特に賞賛されるようなことではない。

くまりんが見てた! PartIII 「再度戒律を考える」より抜粋)


ごくごく簡略化して書けば、釈定光は、戒律を守るという意識が非常に高く、また、仏教の理念は個々の人間の心に宿るべきもので、僧侶は安易に権力の座についてはいけない、と考え、生涯実践した人だったようだ。
しかし、この釈定光と、西明寺の阿育王石塔を建立した釈大真とは同一人物なのだろうか?
釈定光は雲照寺の住職になることも固辞したというから、西明寺の住職になったとは考えにくい。インドに渡航したという記録も見つからない。やはり釈大真とは別人なのだろう。
大正元年当時の西明寺の住職は確かに釈大真和尚なのだが、この前任の住職は稲村英隆(えいりゅう)という人で、彼は茂木大秀という若い僧侶を連れて実際にインドに渡っている。
早稲田大学総合研究機構 というサイトに保存されているPDFファイルに、こんな記述があった。

近代における日本とアジアとの関係が日本の近代化の過程に重要な役割を果たした。
日本は近代文明的な国家として欧米と同じようにアジアの発見を行う必要と仏教の原点をさがす先頭にたつべきだと考えた。
日本の美術と文化の特徴と原則をはっきりさせるために、アジアとインドの関係を調査し、そのうえに立って日本の文化を説明し優れた側面を指摘しようとした。
また日本の仏教界にも宗教を近代化する動きがあり、それら組織は欧米の影響を色濃く受けて思想的な環境を作った。その一方で、日本の仏教界は “釈尊の祖国”インドへの関心を高め、多くの人が仏蹟を巡拝し初期仏教の研究とインドの研究を推し進めた。この過程のなかで日本の南アジア観が作られた。
北畠道龍をはじめ多くの日本の僧と学者がインドの仏蹟を巡拝しサンスクリットを学びにいった。北畠はブッダガヤに ‘日本開闢以来余始詣干釈尊墓前明十六年二月四日道龍’という石塔をたてた。何条文雄(1887),稲村英隆(1893=明治26),釈守愚(1896),等はインドへ旅してそのうちの何人かが長い滞在もした:山上草原(1908)と益田慈良 1912)はカルカッタ大学で講師をし、岡教邃は 1915 年からインドに 3 年間滞在し仏蹟調査をした。


さらには、こんなProfileも見つけた。

英隆 エイリュウ(1836〜1910)

埼玉県妻沼歓喜院中興、号は閑雲、俗姓は稲村氏。武蔵国旗羅郡八ツ口村の人。
弘化元年3月妻沼村歓喜院英雅の室に入りて得度し、嘉永6年16歳にして高野山にのぼり、快猛に随って受学し、増應を拝して灌頂を受く。
性は廉潔剛毅、文久2年11月歓喜院を薫席し、明治維新排仏毀釈の法難にあたっては大いに力を尽して法灯を継興す。
又、最も意を育英の業に用い、両誼塾を開き、寺門静軒・松本文斉・松崎赤洞・権田春潮等の学匠を聘して子弟を訓育し、明治6年6月小学校設立に貢献すること多大なり。
明治17年権少教正、同19年4月埼玉群馬両支所学頭、同24年東寺定額僧に歴任す。
教務の傍ら常に事相の研鑚に努め、快猛・龍善・栄秀・照遍・栄厳・玉諦等の硯匠に随って法流を伝承し、特に玉諦より野澤諸法流を瀉瓶す。
明治26年インドに渡航して仏跡を巡礼し、帰朝後槙尾山西明寺を住持す。
36年9月権大僧正に補せられる。
38年10月西明寺を釈大真に附嘱して歓喜院に隠居し、43年5月16日同院に寂す。
壽73。同年7月16日大僧正を追贈される。嗣法に英良あり
(密教大辞典・法蔵館より抜粋、一部変更)



これによれば、西明寺の阿育王石塔が建立された大正元年には、稲村英隆和尚は没しているが、自分の次の代の住職として西明寺を託した釈大真和尚に、インド紀行のことなどを伝承していたに違いない。それに触発され、釈大真和尚もまたインドに渡ったのだろう。

稲村英隆がインドに渡ったのが明治26年。
ルンビニの石柱が発見されたのが明治29年。
サルナートの石柱が発掘されたのが明治37年。
……となると、英隆がインドに渡ったとき、阿育王の石塔の実物を見ていたとは考えにくい。

ところで、インドに渡った日本の僧侶のリストに「釈守愚」という人物が複数の資料に出てくるのだが、この釈守愚は釈大真、釈定光とは関係ないのだろうか? 臨済宗の僧となっているので、別人であることは間違いないのだが……(西明寺は真言宗)。
釈守愚の「守愚」は、一つのことを決めたら愚直なまでにそれを守り通す、という意味。おそらく自分でつけた号だろう。釈守愚を検索していくと、こんな記述も見つかった。
これには、守愚は1894年(明治27年)3月下旬に「セイロンでの修学に区切りを付けてカルカッタに向かう臨済宗の留学僧」として登場する。
早稲田大学総合研究機構の資料では釈守愚がインドに渡ったのは1896(明治29)年となっているが、その2年前にはすでにセイロン(スリランカ)にいたことになる。もしかすると明治29年は帰国した年なのか、あるいは2度にわたって渡印したのかもしれない。

釈守愚と西明寺の阿育王石塔は直接は関係ないだろう。しかし、当時、仏教の原点を見極めるため、インドに渡った僧は、宗派を超えて何人も存在していたことが分かった。
明治維新で吹き荒れた廃仏毀釈の嵐も収まり、日本の仏教界を新たな決意で再興していこうとする僧侶が何人も現れ、それぞれに熱い気持ちを抱いて活動していたのだ。
彼らが実際にインドやスリランカまで行き、釈迦ゆかりの聖地を訪れた時期と、アショーカ王の石柱群が各地で発掘され、石柱の秘密が解明されていった時期が重なっていることにも注目したい。日本の仏教界に、律法を厳守して仏教の原点に回帰しようという動きが宗派を超えて出てきたとき、ブッダの実在を証明するものとしてアショーカ王石柱群がインドやネパールで次々に発掘されていった。原点回帰のシンボルとして阿育王石塔を日本にも……という思いが生まれるのは、自然なことだったに違いない。

その流れの中に、奥州の名工として雲照グループに認められていた小松寅吉が関わった。
釈大真がいつインドに渡ったのかは分からない。しかし、西明寺を継いだのが明治38年10月だから、その前ではないだろうか。西明寺を継いだ後に、長期間寺を留守にしてインドに渡ることは難しいだろうからだ。
西明寺の石柱柱頭部にある4頭の馬の像は、明らかにサルナートの4頭の獅子像をモデルにしている。
しかし、サルナートの石柱が発掘されたのが明治37年〜38年。釈大真がサルナートの獅子像石柱を生で見ていたとすれば、ぎりぎりの時期だ。もしかすると、まさに発掘されたばかりの獅子像を見たのかもしれない。

特筆すべきは、その後、世界中でコピーが造られていったサルナートの石柱そのものではなく、伝承だけで柱頭部が分からないルンビニの石柱(柱の上に馬の像)が明治末期に日本で再現されたということだ。
この馬の像を背中合わせの4頭だてにするアイデアは誰のものなのだろうか?
依頼者の釈大真和尚がそのように発案して寅吉に指示したのか、それとも、依頼を受けた寅吉が出したアイデアなのか……。よほど明解な資料が発見されない限り、これは永遠の謎になりそうだ。

いずれにせよ、寅吉は自分の石工人生最後の大仕事として、はるばる京都まで足を運び、世界中の誰もが見たことがない「お釈迦様生誕の地にあった阿育王石塔の再現」を受け、挑んだ。これは事実なのだ。

……こんなふうに、少し紐解いていくだけで、西明寺の裏庭にある「阿育王石塔」には、様々な人間の歴史が刻まれていることが分かってくる。
現代という混迷の時代に、当時の人々の熱い気持ちに思いをはせてみる──ここ数日は、なんとも感慨深い日々だった。

最後に、忘備録的に、西明寺阿育王石塔の謎を紐解いていく中で浮かび上がってきた人物伝、年譜を作っておくことにする。

釈雲照(雲照律師) 1827(文政10)-1909(明治42) 没年82歳

真言宗の僧。島根県出身。俗姓渡辺。戒律復興運動を主導した慈雲(じうん)飲光(1718-1804)の神仏習合思想に影響を受ける。高野山に入り、真言律を復興。高野の女人解禁と廃仏毀釈に敢然と反対を唱えたことで有名。京都勧修寺、仁和寺(にんなじ)の門跡を経て、東京で十善会、目白僧堂を主宰。青年・婦人教育に尽力。
1887(明治20)年5月5日、那須野に雲照寺を創建。
雲照は、仏教の原点は釈尊の悟りにあり、釈尊の戒律が今も維持されているのはセイロンであると考え、甥の釈興然をセイロン(現スリランカ)に留学させる。釈興然を通じてセイロンの在家仏教の復興と祖国の独立を指導した活動家、アナガーリカ・ダルマパーラ(1864〜1933)とも親交を持つ。ダルマパーラの紹介で、数々の西洋人仏教徒が雲照を訪ねた。

釈興然 1849(嘉永2)〜1924(大正13) 没年75歳

釈雲照の甥で弟子。雲照の勧めもあり、1886(明治19)年9月19日、横浜港からフランス郵船に乗り込み、単身セイロンに渡った。セイロンでは、後から渡ってきた吉連法彦、釈宗演らと共にパーリ語を学び、南方仏教の戒律研究とインド仏教遺跡の視察を行った。渡航前は、横浜の三会寺(高野山真言宗)住職。
セイロン滞在時には、当時、英国領であったセイロンで、ナショナリズムと仏教復興運動に燃えていた若きリーダー、アナガーリカ・ダルマパーラとも親交を持ち、師匠・雲照とダルマパーラを結びつける仲介役も果たす。
1888(明治21)年8月には、4年間のドイツ留学を終えて帰国途上コロンボに立寄った森鴎外と面会。興然の修業ぶりに感動した鴎外から三編の賦詩を贈られる。
1890(明治23)年6月、キャンディのシャム派総本山マルワッタ寺において僧名グナラタナを授けられ、日本人として仏教史上初めての上座部仏教僧侶となる。
しかし、その「我こそは佛教正統の比丘」というプライドが強すぎたため、1893(明治26)年に帰国後は師匠の雲照との仲が悪化したと言われる。

アナガーリカ・ダルマパーラ 1864(元治元)〜1933(昭和8) 没年69歳

コロンボのゴイカマ(農業)カースト、ヘーワヴィタルネ家の長男として生まれる。ヘーワヴィタルネ家は家具工場を経営する裕福な家で、かつ、敬虔な仏教徒だったが、英国領下の時代にあり、ダルマパーラも「ドン・デヴィット」と西欧の名前がつけられ、幼少時はカトリックやプロテスタントの宣教団が経営するミッション・スクールで英語によるキリスト教教育を受けた。
しかし、聖書の記述の不条理なども見逃さない批評精神の持ち主で、次第に根本仏教の復興や祖国の独立運動へと目覚めていく。
1875(明治8)年、アメリカ・ニューヨークで神智学協会を設立するも、受け入れられず、追われるようにインドに渡ってきたヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人とヘンリー・スティール・オルコット(オルコット大佐)と親交を結び、後にオルコットと共に来日も果たしている。

西山禾山(かざん) 1837(天保8)-1917(大正6) 没年80歳

臨済宗の僧侶。愛媛県八幡浜市穴井出身。37歳で江西山大法寺18代和尚。
居士禅(在家禅)の興隆に尽力。1881(明治14)年、大法寺の火災で大やけどを負い「焼け和尚」の異名を持つ。1888(明治21)年、大法寺を再建。1894(明治27)年、退休軒(獅子林)を建てて住み、弟子の育成に努める。弟子の中でも、愛知県妙興寺寛慶、京都銀閣寺節譚、岐阜県雲龍寺祖久、京都安寺晁堂、大阪了徳院秀戒、栃木県雲照寺戒光和尚の六人は「獅子林の六子」と呼ばれた。
名のある寺院から何度か招ぜられたが固辞し続けた。

釈戒光(無着戒光) 1871(明治4)-1928(昭和3) 没年57歳

福島県(寅吉と同郷の山形村=現石川町)出身。釈定光の師。
20歳のとき、東京目白にて雲照律師(真言宗)に師事。
1887(明治20)年5月5日、師の雲照が那須野に雲照寺を開山。
1894(明治27)年、高野山蓮華定院の浦上隆応(真言宗)について得度。
1902(明治35)年、伊予の大法寺に赴いて、西山禾山(臨済宗)に師事。この年、雲照寺に小松寅吉を頭領とする石工グループを招き、准提観音像をはじめとする三十三観音像を建立。
1906(明治39)年、禾山の印可を得て、雲照寺に戻る。
1913(大正2)年、道友会を創設、東北各地に布教。
1920(大正9)年、浦上隆応が仁和寺の門跡となったため、那須の雲照寺専任となって生涯を終える。

釈定光 1884(明治17)-1949年(昭和24) 没年65歳

釈戒光に師事。真言と律と禅の三学を修める。
29歳のとき臨済宗隠山派の妙心寺から伝統の禅を嗣法。
その後、天台大学、真言大学に学ぶ。師である釈戒光から雲照寺を継ぐように要請されたが固辞
1920(大正9)年8月、「これからの仏法は在家仏法にある」として釈迦牟尼会を創立。

稲村英隆 1836(天保7)-1910(明治43) 没年74歳

武蔵国旗羅郡八ツ口村に出生。
1844(弘化元)年3月妻沼村歓喜院英雅の室に入りて得度し、1853(嘉永6)年、16歳にして高野山に入山。
1862(文久2)年11月歓喜院を継承したが、1868(慶應4=明治元)年9月、明治維新の神仏分離令に際し、聖天宮(現・大我井神社 埼玉県熊谷市妻沼)の彌宜職であった田島河内・堀越大和・橋上宮内の3名が謀って京都と東京の裁判所に聖天宮を神宮の完全管理下に置けるよう願い出た結果、当時の住僧であった稲村英隆は一時収監された。しかし、氏子の多くは寺院側を支援。時の判事の斡旋により、当時の聖天宮境内を二分して聖天宮と大我井神社に与えることで決着した。
若い僧の育成に努め、1884(明治17)年権少教正、1886(明治19)年4月埼玉群馬両支所学頭、1891(明治24)年東寺定額僧を歴任。
1893(明治26)年インドに渡航して仏跡を巡礼。帰朝後槙尾山西明寺を住持
1905(明治38)年10月、西明寺を釈大真に附嘱して歓喜院に隠居。1910(明治43)年5月16日没。

釈大真 ?-?

1905(明治38)年10月、京都西明寺の住職を稲村英隆より引き継ぐ。かつてインドに渡った稲村の影響もあってか、自らも渡印し、聖地を回り、アショーカ王石塔の実物を見て感動。帰国後、西明寺にも同様の石塔を建てることを発案する。
釈迦牟尼会創立にも尽力。

小松寅吉(布孝) 1844(弘化元)年6月6日-1915(大正4)年2月22日 没年70歳

1844(弘化元)年6月6日、山形村(現・福島県石川郡石川町)に生まれ、その後、高遠藩を脱藩して石工をしていた小松利平に弟子入り。後に小松家の養子になり、「小松布孝」を襲名。
1902(明治35)年9月、那須の雲照寺の准提観音像を制作。
1912(大正元)年、京都西明寺の住職・釈大真の依頼?により、西明寺に阿育王石塔を制作。
━━━━━━━━━
<<参考>>『大アジア思想活劇 〜仏教が結んだもうひとつの近代史〜』(佐藤 哲朗・著)他

(2011年2月8日 updated)


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