来月初めに明治大学の一般向け講座で「神の鑿」の世界(小松利平・小松寅吉・小林和平の人生と作品)について話をするので、その準備でいろいろ調べ直しているところだ。
調べていて改めて思ったのは、日本の狛犬史には何本かの道(流れ)があり、江戸時代にはその道が別々にあったということ。
- 1)宮中や著名な神社で生まれた正統派(?)獅子・狛犬路線の木彫狛犬をモデルとして石でも彫るようになったもの
- 2)越前の笏谷石で彫られた狛犬が越前の特産品のように全国に流れていった系譜
- 3)1)や2)の情報が乏しい地方で、村石工が伝聞情報だけを頼りに彫った「はじめ狛犬」
- 4)1)~3)が整理統合される過程で生まれた浪花狛犬や江戸獅子、出雲狛犬などの地方を代表する狛犬の完成形
- 5)いくつか固まってきた「定型」にとらわれず、独自の狛犬を作りだそうとしたアート志向のもの
「神の鑿」の世界を築いた最初の主人公・小松利平は5)のタイプの石工だった。
利平は藩の掟を破り、福島の地に身を隠した高遠石工だ。結果、生涯自分の名を作品に刻むことはなく、高遠側には小松家の記録が残っていない(お家断絶処分か?)。そのへんのことも当日は話してみたいと思っている。
全国に高遠石工が残した石仏は多数ある(人気のある守屋貞治だけでも300体以上)が、なぜか高遠石工の銘が入った狛犬というものがほとんどない。たまに見つかっても、不思議と定型がなく、バラバラな印象を受ける。
これはなぜなのか、いろいろ想像をめぐらせてきたのだが、
- そもそも高遠石工に狛犬を発注することがあまりなかった
- 高遠石工の側にも、狛犬の知識や情報があまりなかった
- しかし、旅の途中で様々なはじめ狛犬や越前狛犬を見る機会はあったはず
- その上で、出稼ぎ先で狛犬の発注があると、自分が分かっている範囲で彫り上げるが、技術は村石工よりも上で、プライドもあったから、村石工が彫った「はじめ狛犬」よりはずっと出来のよいものが彫り上がる。結果、自然と「定型のない個性的な狛犬」が生まれた
……というようなことではないかな、と思う。

白河鹿島神社 文政11(1828)年
たとえば↑この狛犬などは、石工名はないのだが、年代や形からして、高遠石工の手によるものではないかと思う。実際、白河にはこの時代、何人もの高遠石工が出稼ぎに来ている記録が宗門改帳などに残っている。
足尾の通洞鉱山神社の狛犬(1743年。実は近所の磐裂神社に奉納されていたのを古河がここに持ってきたのでは? と推理している)も、もしかすると高遠石工が彫ったのではないかと思う。
足尾通銅鉱山神社の狛犬 1743年
そうやって改めて見ていくと、八槻都々古別神社に高遠石工である利平が彫った狛犬がああいう形で残っているのは納得がいく。利平の先輩たちがあちこちに少しずつ残した狛犬の「遺産」を受け継いでいたのかもしれないし、福島に流れてくるまでにいろいろな狛犬を見て、吸収してきたのではないか、と。
八槻都々古別神社の狛犬 天保11(1840)年
石工ではなく画家になりたかった野田平業
もうひとつ、この準備作業の中で、偶然、野田平業のことを書いているWEBページを見つけた。
野田平業は白河の石工で、1898年 明治31年生まれだから、明治14(1881)年生まれの小林和平より17年下になる。白河周辺だけでなく、僕が直接確認しただけでも、浜通り(浪江町請戸)や小野町、川内村、鮫川村あたりまで、実に多くの作品を残している。
狛犬の顔が怖すぎてどうも趣味ではないのだが、技術はすごくて、籠彫りの玉などもいくつか彫っている。どんな石工だったのだろうと気にはなっていたのだが、
⇒このサイトに、平業のお孫さんと交流が生まれたという人がいろいろ書いていて、驚いた。
僕はずっと「へいごう」と読んでいたのだが、正しくは「へいぎょう」と読ませるらしい。本名は野田豊吉で、平業とは別に、画家として稲香(とうこう)という号も持っていたという。
ここで紹介されているお孫さんというのは女性で、
フェイスブックの「狛犬さがし隊」に参加していた。僕が平業のことを狛犬さがし隊に書いたところ、ご本人からメッセージをいただいて、さらにビックリ。
彼女の話では、平業は本当は画家になりたくて、石工には「いやいやなった」らしい。相当アーティスト志向が強かったのだろう。銘には「石工」ではなく「彫刻師」と刻んでいることが多い。それにしても、いやいや継がされた石工業でこれだけの仕事を残したのだから、なんとも皮肉だ。
寅吉は石工として活躍できたであろう20代、30代が明治初期にあたり、廃仏毀釈の波に呑み込まれて石彫刻作品をほとんど残せなかった。本格的に石彫刻を創り出せたのは明治20年代になってからだ。
寅吉の弟子・和平は日清日露戦争、太平洋戦争の時代を生きた。太平洋戦争前は大きな狛犬の受注もあったが、戦後は一気にしおれていった感がある。
野田平業が寅吉の時代に生まれていたらどうだったのだろう。石工業は石仏や狛犬などの注文がなくなって開店休業を余儀なくされ、好きな画業に専念できただろうか。
平業の狛犬代表作をいくつか挙げると、いちばんインパクトがあったのは棚倉町宇迦神社の狛犬。昭和2(1927)年の建立。
平業がまだ20代のときの作品ということになる。
和平が石都都古和気神社に親子獅子を彫るのはこの3年後の昭和5(1930)年だから、狛犬の制作では17歳年下の平業のほうが早くスタートを切っていたともいえる。

宇迦神社の狛犬 阿像


宇迦神社の狛犬 吽像……のはずだが、口を開いている

角の形や尾のデザインが個性的で、見たときはかなりの衝撃を受けたものだ

籠彫りの玉が印象的なのは鮫川村八幡神社の狛犬。これもかなりの大作だ。建立年が確認できないのだが、戦前、30代くらいの作ではないか。
白河市関辺大久保の八幡神社には、まだ平業を名乗る前、本名の豊吉で彫った狛犬があるが、大正5(1916)年10月の銘があり、、1898年生まれの平業がまだ18歳くらいのときの作品ということになる。10代でこれだけのものを彫っていたというのは、相当早熟な石工だったということになる。
小松寅吉が死んだのは大正4(1915)年2月だから、このとき和平は親方寅吉が死んだ直後で、仕事もなく、パッとしない30代を過ごしていた。
そんな時代に、隣の白河では「石工になりたくない」少年野田豊吉が立派な狛犬を彫っていたわけで、なんという皮肉だろうか。
他にも川内村の諏訪神社、伊達市の水雲神社、福島市の愛宕神社、那須塩原市の乃木神社など、白河から相当離れた場所にも平業の銘のある狛犬がある。作風はほとんど同じ。この作風の狛犬が人気があって「あれと同じような狛犬を」という注文が殺到したのではないだろうか。
数ある平業作の狛犬の中で、今となってはいちばん記憶にとどめておきたい狛犬は
浪江町請戸の苕野(くさの)神社の狛犬。
昭和17年2月28日の建立で、「彫刻師野田平業作 白河市字横町之住 台座 石工 今福栄蔵」という銘があった。
この神社のあった請戸地区は3.11の津波で流され、人も建物も消えてしまった。
原発が爆発し、自衛隊も消防団も引き上げてしまったため、生存者が瓦礫に挟まれたりして声を上げているのが分かっていたのに見捨てられ、餓死した人もいた。そんな場所の神社にまで平業さんの狛犬が奉納されていたのだ。
昭和17(1942)年2月は太平洋戦争が始まったばかり。平業は40代半ば。戦争が始まって毎日ラジオから戦況報告が流れてくる中、平業はどんな気持ちでこの狛犬を彫ったのだろう。
この年には、玉川村の川辺八幡神社、西郷村の永倉神社にも狛犬を彫っている。そして、戦後は石工業をやめて白河を出た。
この狛犬はおそらくもう消えてしまっている。神社も跡形もなくなっている。
石工になんかなりたくない、俺は絵描きになりたいと思い続けながらも十代から見事な狛犬を彫り、40代には浜通りからまで制作依頼が来ていた売れっ子石工・野田平業。
お孫さんの話では、
祖父は早々に石工を引退し、白河から関東に移り、置物用の狛犬や、山水画の掛け軸を、ひとり自分の部屋で作成して、親戚や知人に配っていました。
とのこと。
おそらく戦争を経験し、自分の人生を大きく見つめ直し、ようやくやりたかったことを自分のペースでやり始めたのだろう。
昭和56(1981)年10月23日、83歳で生涯を閉じた。
和平にしても平業にしても、太平洋戦争の前と後ではガラッと人生観が変わったような気がする。戦前は取り憑かれたようにすごい狛犬を彫り続けていたが、戦争を経験し、戦後は静かに自分の石工人生を振り返りつつ、和平は孫に石工を継がせ、平業は石工業を自分の代で終わらせた。
和平の孫の登も、その後、石工業を廃業した。
南福島に花開いた石工たちの物語は太平洋戦争と共に幕を閉じていったといえる。