2019/08/14
一族集合

お盆休みで義妹家族が来日(この「日」は日光のこと)。義母を囲み、一族勢揃いの図
肉体、特に脳が一気に衰えていくのは、本人も辛いだろうが、見守る者たちも辛い。
自分もすぐにこうなるのだろうか、という思いを抱えながら、自分の肉体が衰えていくのを毎日感じなければならない。
肉体は面倒だ……が、私のここ数十年の口癖だったが、ここまで衰えてくると、切り口というか、視点を少しずつ変えていかないと、日常が辛くなる。
このところ考えるようになったのは、肉体は面倒だが、肉体から解放されることが幸せなのか? ということ。
肉体から解放された後(要するに、死後)、この物理世界をすっぽり包括する、より大きな世界があるとする。しかし、そこには、肉体が感じていた快楽や喜びはもうない……。
例えば音楽に対する快感は、人間に共通したものではない。個々人の「脳」に依存している。同じ音楽を聴いても、その人の持っている音感、聴覚、鑑賞能力、数値になりにくい五感のようなもの……に依存するので、まったく違う感じ方をする。
この「感じ方」は脳が作りだしているもので、その「固有の脳」(肉体)がなければ、その人の音楽の世界も存在しない。
一方、自然界に対する感覚(生命の不思議や神秘への畏敬、感動や、風景に対する美の認識など)は、個々の脳による違いが少ないのではないか。学習によって形成された感覚が一定部分あるとしても、根底では同じもののような気がする。だから、肉体(脳)が消えても、その部分(世界?)は消えないのではないか?
肉体から解放された、より大きな世界から見ても、現世(物理世界)の美しさや秩序、合理や不合理のバランスといった「価値」は、共通に認識できるのではないか?
別の言い方をすれば……、
音楽だけでなく、文学、美術といった芸術分野のものは、個々人の脳の中でしか意味や価値を持たない。
しかし、地球の自然、物理的な世界に存在する価値は、人間の脳など関係なく、最初から別次元の価値として存在している。(だから、そこに人間の脳が関与しようなどというのは、勘違いも甚だしい……)
うまくいえないが、最近はそんなことを感じている。
であれば、私が今、毎日格闘しているこの悩み(創作の価値)は、「自分の脳」に直接関係しているだけで、自分が今生きているこの「物理世界」「現世」とは関係がない。
ゆえに、衰えていく肉体(脳)を、ただ「面倒くさい」と突き放すこともできないのだな……と気づかされた。私という肉体が消えれば、私が創作した作品の価値もなくなるのだから。「死んだ後が勝負」もクソもない。
義母はもう、ハンバーガーをそのままパクッと食べることができないほど衰えてしまっている。コミュニケーションもほとんど困難な状態だ。しかし、彼女は私よりもずっと、脳に関与されない物理世界(現世)の中で、多くのことを感じているような気もする。
私が理解できない、感知できない世界を生きている。その世界のほうが、ずっと奥が深く、広大な「世界」なのかもしれない。
脳が中途半端に動いている人間のほうが、本当の「世界」のことを感じ取れず、不自由な生命に縛られ、苦しんでいるのかもしれない。